「鈴木さんっ!助けてください、友哉(ともや)が…」
最近カウンセリングを始めたばかりの友哉くんのお母さんから、一(はじめ)さんの携帯に電話が入ったのは、戸締りをしてそろそろ帰ろうか、としていた夕暮れ時でした。
「青木さん、戸締り確認して先帰ってて。ぼくは友哉くんちに行ってくる!」
自宅に戻って早苗さんに行き先だけ告げると、一さんは愛車のランクルをガレージから出して、友哉くんの家に向かいました。出がけに一本、知り合いに電話をしながら。
家の中は、家具がひっくり返り、カーテンが裂け、燦々たる状態になっていました。
友哉くんがやったのでしょう、本棚のガラスまで割れています。
そんな中で、リビングの真ん中にみんなはいました。目の周りを腫らしたお母さん、妹の祥子ちゃん、そしておばあちゃん。三人をリビングの真ん中に正座させ、テーブルの上に胡坐をかいて、バットを握りしめる友哉くん。
「こらっ!!友哉。何してんだ!」急に背後からかかった声に驚いた友哉くんは面識のない男性に驚きながらも、はじめさんを睨みつけながら言いました。
「さっさと出て行け!おっさん。怪我するぞ。」
小柄ながらも、中2の男の子です。思いっきりバットを振り回されてはたまりません。
少々の合気道の心得(と言っても、昔取った杵柄…)を頼りに、バットの動きを封じると、あとは思いのほか簡単に、友哉くんの襟首をつかんだ一さん。
あっけにとられるほど、きゃしゃな体つきの男の子。そのあまりに軽い体重にちょっと驚きながらも、えりをつかんだまま、庭に放り出します。
優しそうな見かけによらず、凄味の利いた声で、一さんは言いました。
「おい、友哉。お前が、お母さんを殴ったら、今度からその倍、俺が殴り返してやるぞ!」
ちょうどその時でした。知り合いで建設業を営む、田中さんがちょっと強面の従業員のお兄さんを、二人ほど連れてやってきてくれたのは。
見るからに屈強そうなお兄さん方の出現に、ちょっと腰の引けてしまった友哉くん。
あっけない幕切れでした。
おとなしくなった友哉くんに、もう一度、暴れないようくぎを刺すと、一さんたちは帰途に着きました。田中さんは大変な子ども好きで、ちょっとぐれてしまった子や引きこもりがちな子を引き受けては自分のところでバイトをさせたり、一緒に釣りに行ったりと、何かにつけ面倒を見てくれる地域の相談役のような人でした。
一さんも仕事がら、気になる子をしばらくバイトさせてもらったり、人付き合いの苦手な子をしばらく預けたり、とよくお世話になっています。お互い釣り好きが高じて、釣果の自慢合戦(虚言あり!?)もしばしばですが、それ以外はとても頼れる人なのでした。
「いつも、すみませんね。田中さん。ちょっと脅かしとかないとお母さんの身が危ないと思ったもんだから。」
そういう一さんに、にっこりと笑いながら「なーに、お役に立ててよかった。何なら、しばらく預かってやってもいいんだが。うちでしばらくバイトすりゃ、家で暴れる体力なんか無くなるよ。」と豪快に笑う田中さんでした。
帰宅後、みんなが夕食を終えたテーブルに二人で向い合せに座って、一さんは早苗さんと遅い夕食を食べ始めました。
「今日も大変だったみたいね。」そう切り出す早苗さんに、一さんは言います。
「まったくだ。世間ではみんな、セラピストを頭脳勝負のかっこいい仕事だと思ってるみたいだけど…実は肉体労働なんだよなあ。定時も定休もあってないようなものだし…。あーぁ仕事の選択、間違ったかな?」
そうぼやく一さんに食後のお茶を出しながら、「ま、人生楽ありゃ苦もあるわよ。何の仕事もはたから見てるだけじゃ分からないものよ。主婦業だって三食昼寝付きって思われてるけど、拘束時間半日以上の過酷な労働だしね!」
お茶目に愚痴を言う早苗さんに、苦笑しながら、「はいはい、お勤めごくろうさん。ご褒美にいっぱいやりましょうか、奥様?」と、一さんはワイングラスを戸棚から取り出し、リビングに移動するのでした。
次の日の朝、いつもの嵐に巻き込まれながら一さんは「みんな、愚痴も言わず、元気に学校に行ってくれて…大飯食らいの、食が細いの、寝起きが悪いのなんて文句言ったら罰が当たるな…」と思わずつぶやいていました。
「パパ、どうしちゃったの??お仕事のしすぎで壊れちゃったんじゃ?」そんな仁実のコメントにはさすがに「こらっ」と言ってしまいましたが。
数日後、友哉くんのお母さんがカウンセリングにやってきました。
目の周りはうっすらと青くなっていましたが、新しい打撲はないようでした。
「この間は、急にお電話で呼びつけてしまって申し訳ありませんでした。お陰様で友哉はあれからほとんど暴れていません。ありがとうございました。」
深々と頭を下げるお母さんに、一さんは言いました。
「それはよかった。でもあれは、応急処置ですよ。今からじっくりと友哉くんのトラウマを取り除いてあげなくっちゃ。本当の変化はこれからですよ。そのためにも今日はお母さんに少し理論的なことをお話ししようと思います。しっかり覚えて友哉くんへの声かけや対応する時に使ってみて下さい。」
「はい、よろしくお願いします。」真っ暗やみの中に一筋の光を見つけたような、希望を見出したようなお母さんの表情が印象的でした。
お母さんから聞いたところ、友哉くんはとてもおとなしい子だったらしく、小さい頃からどちらかというと、外で泥んこになって駆けまわるというより、ゲームや本、漫画などを好む子だったようでした。
お父さんは、どちらかというと自分中心のわがままな人で、ここ数年は夫婦仲がこじれ、別居状態になっていたようです。
お母さんもどちらかというと幼い感じの人で、お家で友哉くんが暴れるとパニックになってしまい、妹やおばあちゃんを守るどころではなくただおろおろするばかり。
友哉くんに大人として叱るべき所はきちんと叱り、保護を与えてくれる人が誰もいない、そんな家庭状況でした。
怖いながらも、守ってもらえる安心感を持てる大人の存在を感じてもらうこと、それが友哉くんには必要だ、そう感じた一さんはお母さんに言いました。
「家に帰ったら、友哉くんに言ってください。お母さんを殴って僕にやっつけられるのが嫌なら、代わりに僕のところに来ること。それが条件だ、とね。」
後は、友哉くん次第だ…一さんは根比べを覚悟して、友哉くんが自分で事務所まで来るのを待つことにしました。
一週間後、しぶしぶ…といった感じで友哉くんはやってきました。
いったい何のお小言が始まるのか、お前のことなんか信じないぞ…そんな様子がありありの友哉くんに一さんは言いました。
「よく来たな、友哉くん。君はお家にいるととても腹が立って来て歯止めが利かなくなるようだから、しばらく昼間だけでもここに通ってお家から離れてみてごらん。その怒りの原因がきっと見えてくるはずだから。」
何を説教されるのかと警戒していた友哉くんは、一さんの言葉にハトが豆鉄砲を食らったような面喰った顔をしていましたが、しばらく考えた後「うん」とうなずいたのでした。
友哉くんの奇妙な通勤が始まりました。青木さんがやってくるのとあまり変わらない時間にやって来て、最後のカウンセリングのお客さんが帰った後に帰っていきます。
日がな一日、青木さんがお客さんにお茶を淹れ、電話の応対や書類の整理をし、備品の買い出しや銀行の用事など忙しく動くのを眺め、合間に一服したり一緒にお弁当を食べたりして過ごしました。だんだん、ここの人が友哉くんを矯正しようとしているわけではなく、何かをさせようとしてるわけでもなく、時折、友哉くんがぽつりとする話を熱心に聞いてくれ、その時の気持ちをくみ取ってくれ、ここにいていいよ、と守られている感覚が感じ取れるようになってくると、友哉くんに変化が表れてきました。
そんなある日のことでした。年も若くゲームにも興味がある青木さんの一面が分かると、友哉くんは青木さんの手が空いているときを見つけては自分の好きなゲームのキャラクターやゲームの攻略法などを楽しそうに話すようになっていました。
2人がゲームの話に熱中しているところへ、カウンセリングを終えた一さんがやってきて言ったのです。
「お昼ごはんが済んだら、少し話をしようか?」と。
お弁当を食べ終えてひと休みしたころ、友哉くんと一さんはカウンセリング室に入って行きました。
椅子にかけて緊張している友哉くんに一さんは優しく声をかけました。
「最近はお母さんを殴ったり、家の中のものをひっくり返したりしてないみたいだね。お家から離れてみたら、何が見えた?」
しばらくうつむいていた友哉くんは、「家では落ち着ける所がなかった。」とぽつんと言いました。
友哉くんの家は友哉くんがかなり小さい頃から両親のケンカが絶えなかったようで、それを見ながら育った友哉くんは、何も言えずにいつもじっと我慢するしかなかったと言いました。
お父さんは自分中心の人でどちらかというと子どもをわずらわしく感じていたようであまり構ってくれず、お母さんはそんなお父さんとの関係に疲れ、子どもたちに十分な愛情を注ぐゆとりがなかったのでしょう。友哉くんが安心を感じることができる家庭環境とはほど遠いものだったのです。
その我慢もついに爆発する時がきました。きっかけは些細なことだったのかもしれません。
その、最後のひと押しでたまりにたまった怒りが爆発した友哉くんは、ついに家庭内暴力を始めたのです。
怒りを使ってみると意外にも、小さく無力に感じていた自分に力があふれてくるようでした。
とても快感でした。
お母さんもおばあちゃんも妹も怖がって自分のいいなりになり、とてもいい気分だったと彼は言いました。でもそれも一瞬のことで、またもとのようにむしゃくしゃするという繰り返しだったのです。暴れても怒ってもお母さんを殴っても、怒りは収まらなかったのです。
「友哉くんだって好きで暴れていたんじゃないんだ、ずっと我慢していたことが爆発したんだよね。…この話をしながら君は怒ったように話しているけど僕にはとっても悲しい目をしているように見えるよ。」
そう一さんが言ったとたん、友哉くんは一瞬はっとした顔をしました。
見る見る間に目に大粒の涙が盛り上がり、後からあとからあふれてきました。
「君はお父さんとお母さんが喧嘩ばかりしているのが悲しくてたまらなかったんだね。優しい子だ…」
友哉くんは嗚咽交じりの声で、「誰も分かってくれなかった…」と言いました。
そんな友哉くんの背中を、一さんはただ、優しくさすり続けました。
一さんがテーブルの上に置いてくれたティッシュの箱に手を伸ばし、友哉くんが大きく鼻をかんだのは、ずいぶん時間がたってからでした。
そして、今まで青木さんにはたまに見せるようになっていたのですが一さんには向けたことがない、はにかんだような笑顔を見せるとこういいました。
「ここは居心地よかったよ、おっさん。またいつか来てもいい?」
「おっさんじゃなくて、鈴木さんだろ!ああ、仕事の邪魔さえしなけりゃいつでもいいよ。青木さんとゲーム談義しにおいで。」
帰って行く友哉くんを見送りながら、青木さんが言いました。
「子どもたちがみんな、お家を温かい居場所だと思えるようになってほしいですね…。今の世の中、大人たちの方が逆に面倒見てもらっているみたい。子どもたちにしわ寄せが来るはずですね。ゲームや漫画の世界に逃げたくなっちゃう気持ち、分かるなあ…。」
そんな青木さんに一さんは言いました。
「友哉くんの大人への信頼を取り戻させたのは青木さんだよ。干渉しすぎず、しっかり働く背中を見せながら、求めてきたときにはしっかり受け止め、たまには子どもとおなじ目線で遊ぶ。子どもたちはそんな大人の存在を心の奥から求めているんだよ。」
一さんはいたずらっ子のような目をしながら、さらにこう言いました。
「さてここまで褒めたんだから、お茶の時間にはさぞかしおいしいコーヒーが飲めるだろうなあ、楽しみだなあ。」
舞い上がったのもつかの間「これさえなければ、完璧な大先生なのに…。」
青木さんは口ではそう言いながらも、いそいそとコーヒーを淹れに奥に戻っていくのでした。