こんなはずはない、何かが間違ってる…。
その思いは、一日たりともなくなることはなく、頭の中にありました。
優秀な成績をキープし、人当たりも良く、先生たちの評価も高い優等生。
それが自分だったはず。
それがどこからおかしくなっていったのか…自分でもさっぱり分からないのです。
朝になるとお腹が痛くなったり、頭が痛くなったり、ひどい時にはめまいまでして
立ってもいられないほど具合が悪くこともしばしば。
病院に行って何回となく検査も受けるのですが、異常は認められず、「精神的なものではないか?」「考えすぎでは?」と言われ、しまいには仮病(けびょう)扱いまでされる始末。
次第に学校に行けない日の方が多くなり、行っても遅刻や早退、保健室で過ごすことも多くなって行ったのです。
こんなはずじゃないのに。
俺の実力はもっともっとあるはず…こんなところで、つまずいていいはずじゃないのに。
そうは思っても、体調が良くなることはなく気持ちは空回りするばかりでした。
どうしてだろう?
実力を持っているはずなのに、それが発揮されることがないまま空しく過ぎて行く時間がくやしくて、くやしくて仕方なく、一方ではどうすることもできない自分を責めている…その状態は二重の責め苦でした。
自分だけではどうしようもない、どうすることもできない…袋小路に入ったような息苦しさを感じて、生きているだけで辛い、そんな日々を過ごしていた時でした。
見かねた両親が、知り合いから勧められて読んだ本から探し当てたカウンセリング事務所。
それが、一(はじめ)さんのところでした。
とりあえず行くだけ行けば、親も納得するだろう、カウンセリングなんかでこの苦しみが解決するわけがないという気持ちが彼の中では9割方でした。
でも、もしかして…というかすかな希望がほんの少しだけ混じった気持ちで、加納(かのう)君はやってきたのでした。
母親と二人で訪ねたカウンセリング事務所は、小さくてアットホームなところでした。
落ち着いた雰囲気のソファのある部屋に通され、どんなカウンセラーがやってくるのかと緊張して待っていると、一人の男の人がドアを開けて入ってきて言いました。
「はじめまして。鈴木一です。」
とても穏やかな目をした一さんに、やや警戒のまなざしを和らげた加納君を見て一さんは言いました。
「2人で話をした方がよさそうだね?お母さんにはあちらの部屋で待っていてもらいましょうか。」
青木さんにお母さんを案内してもらい2人になったのを見計らって、一さんは加納君に向き直ると改めて話し始めしました。
「加納浩二(かのうこうじ)君だね?きつい中でよくここまで来てくれたね、ありがとう。
君が自分を変えたいって思うなら、僕はいろんな方法を教えたり手伝ったりすることができるけど、お母さんたちから君を変えてほしいって言われても僕にはどうにもできないんだ。君はどうしたいと思う?」
当然、学校に行かない理由や、学校で何かあったのかということを今までいたところのように聞かれるものと思っていた加納君はちょっと意外そうな表情をしましたが、まだ何も答えないまま一さんを見ていました。
そんな様子を見て、一さんはもう一言言いました。
「学校に行っているとか、行ってないとかそんなの関係ないから。」
とてもショックでした。
そんなふうに考えたことすらなかったのです。
学校に行くのは当たり前、いい成績をとり続けるのも当たり前…周囲がそう望む以上に、自分自身ですら、そう自分に求めていたのかもしれません。
そうできない自分を一番責めていたのは、本人であったのかもしれません。
頭の中で常に繰り返される批判…
一日たりともやむことのない批判…
外からのストレス以上に頭の中で自らが作り出す「偽物のストレス」でエネルギーを消耗することは、脳にとって命の危険としてとらえられること、その危険に対処するため脳は身体をメンテナンスするエネルギーまで使いこんでいくため、体調が悪くなり、病気にもかかりやすくなってしまう…
体調がすぐれず学校に行けなくなったことがきっかけで不登校になって行った加納君に、一さんは脳とストレス、体との関係を簡単に説明してあげました。
言われること、説明されること、すべてが「目からうろこ」とばかりに目を見張って聞き入っている加納君に、一さんは笑いながら言いました。
「入ってきたときには『誰にも治せるもんか!信じるもんか。』って考えてるのがありありだったけど少しは興味を持ってもらえたみたいだね?」
一瞬、ハッとした顔をした加納君でしたが、すぐにくしゃっと表情を崩すと両手をあげて「降参です!」とおどけながら言いました。
「初めっからお見通しだったんですね。俺が信用してないこと…
今まで周りにいた大人なんて、誰も見抜けなかったのに。
皆、勉強ができて愛想がいい俺の表面しか見てなかった…俺だって半分はそれが自分だって思いこんでいたんだから。
学校にも行かない、勉強もしない自分なんて何の価値もないって本気で思ってたし…
それをあっさり、『関係ない』って言われたら、崖っぷちだと思ってたところが横に道があった…みたいな感じ。そう、目からうろこってこんな感じなのかなぁ。」
心地よい興奮状態といった感じの加納君は来た時とはうって変わって、饒舌(じょうぜつ)なくらいしゃべりだしていました。
その日は彼がたまっていた鬱憤(うっぷん)を話したいだけ聞いてあげたところで面接を切り上げ、次回の約束をして加納君はお母さんと帰って行きました。
「すごく明るい顔してましたね。」
来た時とはうって変わった表情を見て青木さんは一さんに言いました。
「うん、第一段階クリアかな?でも、まだまだこれからだよ。」
青木さんは、「信頼してくれたら、もう大丈夫だと思ってたんですけど…」と少し意外そうな顔をして、一さんを見返していました。
数日後、やってきた加納君は表情がやや曇っていました。
彼を迎えてカウンセリング室に通した後、青木さんは事務室に戻ってくると言いました。
「先生、加納君あんなに元気に帰って行ったのに、今日はまた表情が暗いんです。どうしちゃったんでしょう?」
「分かった。」と言い一さんはカウンセリング室に入って行きました。
ソファには肩を落とし俯いた加納君が座っていました。
「調子はどう?」と水を向けると、加納君はポツリポツリと話し始めました。
「俺、もう分かったから、すぐ元通りになれるって思ってた…確かにお腹が痛くなったり頭が痛くなったりして動けないっていうのはずいぶん良くなったんだけど…やっぱりこのままよくならないんじゃって気がしてきた…」
それだけ言うと、うなだれたまま、顔も上げることができません。
そんな加納君に一さんはこう言いました。
「今落ち込んでいる自分や学校に行けなくて苦しんでいる自分を5メートル上くらいから見下ろすような感覚で、よーく見てごらん。下にみえる君は何を考えてる?
自分がどうしたいか、人からどう見られるか…どっちをより強く思って学校に行こうとしてるのか…。
よーく見るんだよ。動けないのは人や状況が悪いせいかい?何が邪魔をしてきみはうごけないでいるか、分かるかい?…何を捨てれば君は自由になれる?」
しばらくじっと目をつぶって自分を見つめていた様子の彼が、ハッとはじかれるように顔を上げ、つぶやいたのです。
「…僕の…プライド…?」
「そこが『最後の砦』だったんだよ、君の中の傷ついた小さな子どもにとってはね。
小さい頃から優秀だった君にとって周囲の大人や自分自身が持っている期待の通りにできない自分はあり得ないことだったんだろう?
自分にできないはずがない、自分にはできるはず…そう思うことで自分を守ろうとしていたんだけど、それが逆に足かせのようになってしまっていたんだ。
傷ついた小さな子どもがそう思うことで必死に君を守ろうとしていたんだけど、大きくなった君にとっては必要のない思い込みだったんだよ。
もうそろそろ、そこから自分を解放してあげたらどうかな?」
「…自分を解放する、ですか…。」
「今日はここまでにして、ゆっくり考えてごらん。そして頭が整理できたらまたおいで。」
そう言うと一さんはその日のセッションを終わりにしました。
加納君が頭を下げながら帰っていく後姿を見ながら、一さんは誰にとはなくつぶやいていました。
「砦を壊すのは、誰でも怖いもんだよ。がんばって、殻を破ってでておいで…」