すーっと5メートルくらい上から自分を見下ろしてるような感覚で自分のことを見てごらん。
そのまんま、時間も遡(さかのぼ)ってこうなった原因がどこにあるのか、それがいつのことなのか探してごらん。
ゆっくり、ゆっくりと…
いろんなことが見えてくるだろう?
井上君はもうずいぶん長いこと引きこもっていました。
小さい頃から賢い子で、高校の頃の成績はトップクラス。
「お前はどこでも狙える。」「期待しているぞ」と先生たちの期待も大きかった井上君。
もともと人間関係がちょっと苦手で、口下手な井上君でしたが、いつの頃からかいじめの対象にされてしまっていたのです。
いじめが始まった当初「今に見ていろ、勉強で見返してやる」と自分を奮い立たせて勉強に打ち込んだこともありました。しかし、その努力は逆に頑なな態度に見えたのか、ますます周囲から浮いた感じになってしまい卒業までクラスに再びなじむことなく過ぎてしまったのでした。
家での様子がおかしいと気付いた母親の訴えでいじめは発覚し、学校側からもいじめた本人からも謝罪があり、いじめの行動が止んだ時点でいじめは終わったものと周囲は考えていたでしょう。
でもそうではなかったのです。いじめた側にとっては終わったことでも、いじめられた側にとってはそれが「始まり」だったのです。
井上君は人と関わることが怖くなり、学校に行くことができなくなってしまいました。
保健室登校で何とか卒業はしたものの進学も就職もできないまま20代の半ばを迎えていました。
自分の子どもも不登校でカウンセリングに行って良くなった、という不登校の子どものお母さんから勧められたと言って井上君のお母さんが本人と一緒にやってきたのは、今年ももうあとひと月を残すのみ…という12月の頭のことでした。
どこに行っても自分から口を開くことはなく、ほとんど黙ったままだという彼が、一(はじめ)さんに心を開いたのは、「ここまでよく生きてきたね。今はそれで十分だよ」という一言からでした。
「大丈夫だから学校へ行こう」「自分から積極的にならないと…」
「いい大人が、家にこもってちゃいけないよ」「お母さんを悲しませたらだめだよ」等々…
いろんな人がいろんな立場から言った言葉。自分のためを思っていってくれていると頭では分かっているのですがどうしても腑に落ちない、自分の気持ちなんかわかるものか、という腹立たしい気持ちがあり到底動く気にはなれず、そんな自分をまた責める、という泥沼に中にいるような日々を過ごしていた井上君。
周りから言われるまでもなく、誰よりも一番自分が自分を責め続けていたのです。
そんな苦しみの中で、一さんの一言は井上君にとって暗闇の中の一筋の光のような効果をもたらしました。
自発的な行動を起こすことが久しくなかった彼が、「カウンセリングを受けたい。」といった時、連れてきた母親でさえ驚いたのです。
次回の予約をして、「次は一人できます。」と宣言して母親と二人で帰っていく彼を見送りながら、一さんは青木さんに言いました。
「いじめがどれだけいじめられた人の人生を狂わすか、世の中の人はもっと知らないとね。
高校の時のいじめが大人になった彼を未だに動けないくらい苦しめているんだから。」
数日後、久しぶりの一人での外出に少し迷って数分遅れたものの、井上君は一さんの事務所まで一人でやってきました。
「よく一人で来ることができたね。」そう言って笑顔で彼を迎えながら、一さんは井上君にソファに座るように促しました。
「コーヒーは大丈夫?」と聞く一さんに黙ってうなずくのを確認して、一さんは青木さんに向かって言いました。
「コーヒーを二人分頼むよ。」
淹れたてのコーヒーが運ばれてくると一さんは、「まず、一服しようか。」と緊張している様子の井上君に声をかけました。
ゆっくりとコーヒーを飲んでリラックスしたところで、一さんはこう言いました。
「井上君はなんで自分がこんな状態になっているのか分かるかい?」
いつの頃からか、もともと得意ではなかった人間関係が「怖い」と感じてしまうくらい苦手になり、学校どころか家から出ることもしなくなった自分。
なぜこんな状態になってしまったのか、改めて考えたことがなかった彼は、首を振りながら言いました。
「何でかよく分かりません…人付き合いが苦手だったからかな…」
返事を聞いた一さんはうなづきました。
「…そうか。じゃ、こう考えてみて。
すーっと5メートルくらい上から自分を見下ろしてるような感覚で自分のことを見てごらん。そのまんま、時間も遡(さかのぼ)ってこうなった原因がどこにあるのか、それがいつのことなのか探してごらん。
ゆっくり、ゆっくりと…いろんなことが見えてくるだろう?
何が見えてきた?」
目をつぶって教えられたように自分を上から見下ろす想像をしながら、井上君は時間を遡って行きました。
今の自分、ほとんど家から出られなくなってしまっていた自分、保健室にしか登校できなくなってしまっていた自分、そしてクラス中から無視されている中、見返してやろうと勉強に打ち込んでいた頃の自分…高校入学後間もない頃口下手なため、誤解されることが
多く、もともとの人付き合いの苦手さも手伝い関係を修復できずにいたあの頃。
頭がいいからっていい気になるな、いい子ぶって教師につけ入っている、とあることないこと言われ始めた頃…
そこまで遡った時、井上君は自分でも予期せず驚きの声を上げていました。
過去の嫌な記憶のひとつ、くらいにしか思っていなかったいじめの場面が、こんなにも自分を傷つけ、その後の人生を変えてしまっていたのだと気付いた、驚きの声でした。
「ああ、そうだったのか、このせいで僕はこんなにも苦しんで、未だに動くことができないのか…」
絞り出すような声でした。
「大したことじゃないって、必死に自分に言い聞かせて…あんな奴らのレベルに落ちてケンカするのもバカらしいって、そう思い込むことでプライドを保とうってしていたのか。」
そう、絞り出す声に湿り気が混ざっていました。
そうしなければ、自分を保てないほど追い詰められていた当時の自分を思い、涙が出てくるのを止められませんでした。
「君が思っている以上にいじめの傷は根深かったんだ。いじめが終わって大人になってさえ、君を動けなくしてしまうほどね。周りはみんないじめが明るみに出ていじめた子に謝らせていじめが止んだら問題は残っていないと思うし、本人だってそこまで深い傷を負って大人になった自分を縛っているって分からないまま苦しんでいる人も多いんだ。それは君が一番よく分かったよね?
いじめで受けた傷はその後一生いじめを受けた人を苦しめるんだ。
今日それに気づくことができたのだから、ここから自分を救いだすことが君にはできるはずだよ。
いじめの傷で今の自分を縛って台無しにしてしまうのはもうやめにしようか?」
「でも、どうすれば…」口ごもる井上君に一さんは言いました。
「いじめた人を許しなさい。されたことは到底許せるものじゃないけれど、そのことで今の自分を台無しにすることをやめるために『サヨナラ』するんだと考えればいいんだよ。
一人ひとり顔を思い浮かべて『あなたのしたことで今を台無しにすることをやめます。サヨナラ。』っていうことで過去に縛られることから解放されるんだ。」
ハッとした顔をして一さんの顔を見た井上君は、すぐに腑に落ちた表情に変わると
「はい、分かりました。」と力強くうなずいたのです。
しばらく、口の中で小さくつぶやきながら井上君は数人にサヨナラを告げていましたが
すっきりとした表情をして顔を上げるとはっきりと言いました。
「なんだか、生まれ変わったようなすっきりとした気分です。これから少しづつ動けそうな気がします。」
また一人、いじめの後遺症から救うことができた…一さんは安堵のため息を漏らしたのでした。