普段と変わりない朝の光景。
3人の子どもがいる鈴木家では、もう何年も優雅な朝の一時なんて別世界の夢物語。
一(はじめ)さんも例外ではなく、コーヒーカップ片手に新聞でも…と思ってみるものの、テーブルに着けば、「急いでいるんだから、どいて!」と隅に追いやられ、トイレで新聞を読もうものなら、ブーイングの嵐。
気を取り直してテレビのスイッチを入れると、「お父さん!天気予報見せて!!もうすぐ練習試合だから練習休めないんだ。」「お父さん!仁実(ひとみ)に今日の占い見せて!」なんて言われ、落ち着いてニュースも見ていられない始末。
高二の一輝(かずき)が朝だというのに旺盛な食欲で軽くどんぶり二杯のご飯を平らげ、「朝練行ってくるー!母さん弁当早く!」と、早弁用・お昼用と二つのお弁当をつかむと、一番に飛び出していきます。
台風一過かと思いきや末っ子で六年生の仁実が、洋服選びと髪型を決めるのにひと騒動。
パパっ子の仁実は一つ一つ「パパこれかわいい?」と聞き、生返事でもしようものなら、「パパ、まじめにやって!」と、お目玉をもらってしまいます。
ようやく、服と髪が決まるとテーブルに着き朝食を食べだすのですが、その遅いこと…。
お母さんの早苗(さなえ)さんが「一輝と仁実、足して二で割れたらねえ」と、毎朝嘆く食の細さなのです。
一枚のトーストをやっと牛乳で流し込むと、二つ目の台風もお出かけです。
その頃になるとやっと大学生の長女瑠実(るみ)が起きてきます。
「・・・おはよう・・・」
寝起きの悪い瑠実はエンジンがかかるまでは‘‘触らぬ神にたたりなし”です。
庭からは愛犬、エアデールテリアの二朗くんが散歩をせがんで、そわそわとしっぽを振ります。暑かろうが寒かろうが、晴れでも雨でもお構いなし…。
一さんは「…お前もか、二朗。夕べも遅かったんだけどなあ…」なんてぼやきながら、二朗くんの熱い視線に応え近所を一回りすることにしました。
ずいぶん秋めいて来て、朝の空気がひんやりと心地よい季節です。
大喜びで飛び跳ねんばかりの二朗くんに引っ張られながら、一さんは久しぶりに明るい時間に近所を歩きました。
「そう言えばここのところ忙しかったもんなあ。夏休み明けは、不登校の相談も一気に増えたし。みんな落ち着いてきてくれて、よかったなあ…。いや、もう一人いたか。」
夏休み明けから、急に増えた不登校の子たちが、少しづつ落ち着いてほっと一息、とスタッフの青木桜とコーヒーブレイクをしていた昨日の昼下がり、一本の電話が鳴りました。
電話先で、すでに涙声の母親らしき人が話し始めます。
「もしもし、鈴木先生の事務所でしょうか?はじめてお電話します大野といいます。実は娘が学校に行けなくて…今までこんなことなかったのに。なんとか行けるようにしていただきたいのですが…」
そう切り出した母親に青木さんが応対します。
「それはご心配ですね。お母様大丈夫ですか?お電話されるまでずいぶん迷われたのでしょう?もしお嬢様がおいでになれるようでしたら、ぜひご一緒においでください。行きたくないとおっしゃるのであれば無理強いせずに、まずお母様がおいでください。どんな状態なのかお話を伺って、親御さんの対応が変わるだけで状態が良くなられることもありますので。」
翌日の午前の空き枠に予約を入れると、少し落ち着いた様子で電話は切れました。
そのお母さんが今日の一番目のクライアントでした。
散歩を終えて名残惜しそうな二朗くんをつなぐと、一さんはキッチンのカウンターに座り、早苗さんに「コーヒーくれないか?」と声をかけました。
子どもたちが出かけた後片付けをしていた早苗さんは「お帰り」とほほ笑むと、コーヒーの支度にとりかかります。
やっとゆっくり新聞を広げることができた一さんは、間もなくカウンターに乗せられたコーヒーを美味しそうに飲みながら記事を読んでいきます。
いじめに虐待、殺人事件に通り魔事件。なんでこんなに物騒な世の中になったのか。そんなことを考えながらコーヒーを飲んでいると、ぽん、と隣にトーストと目玉焼き、サラダの乗ったトレイを置きながら、早苗さんが横に腰かけます。
「相変わらず、暗いニュースが多いわねえ。」一さんの肩越しに新聞に視線を落としつつ、早苗さんはため息をつきます。
「こんな世の中のひずみの被害を一番受けているのは子ども達さ。ぼくがひとりで手助けしてあげられるのは限界があるからねえ。」そうつぶやく一さんに早苗さんがいいます。
「良くなっていった人たちがきっと、周りの人達を手伝ってくれるわ。ね!」
つらい思いを経験して乗り越えたからこそ、人にも優しくできる。
かかわった子どもたちがそうなってくれることを願いながら、一さんは出かける支度をはじめることにしました。
自宅から歩いて4・5分の雑居ビルの中に一さんの事務所はありました。
エレベーターに乗って目的の3階のボタンを押すと間もなく事務所に到着です。
「おはようー!」奥に向かって声をかけると、来客前に花瓶に花を生けていた青木さんが気づき「あ、先生。おはようございます!」とぬれた手を拭きながら出てきます。
「すっかり、秋ですねえ。桔梗の花があんまりきれいだったからカウンセリング室にどうかと思って。」流しを覗き込むと、きれいな紫色の花が目に入りました。
「花があるとみなさんほっとされるからね。いつもありがとう。」一さんはにっこりほほ笑むと、デスクに向かいました。
デスクに座り、読み損ねた新聞の残りの記事に目を通していると、コーヒーのいい香りが漂ってきました。間もなく青木さんが愛用のカップに入れたコーヒーを運んできてくれました。
「先生、どうぞ。」
目の前に置かれたカップに手を伸ばし、コーヒーを美味しそうにすする一さんの顔を見て、青木さんが満足そうにトレイを下げて掃除の続きに戻ろうとした、その時でした。
「昨日の電話のお母さんは、学校に行けなくなったきっかけを言ってたかい?」
そう尋ねられて、もう一度こちらを振り返った青木さんはちょっと考え込んだ後答えました。
「いいえ、お母さん自体が混乱してらっしゃる感じで、泣きながらの電話でしたから。とにかく、お嬢さんが学校に行けないことが心配でたまらない、何とかしてほしいって感じでした。詳しい話は何も…。」
「そうか…泣きながら、ね。」
一さんの頭はどうやらお仕事モードに切り替わったようでした。なにか、引っかかっているようなそんな表情で「ありがとう。」とだけ言うと、また新聞に視線を落としていますが、どうやら頭の中はぐるぐるとフル回転を始めたようでした。
いつもその様子を見なれている青木さんは先生の思考を妨げないようにと、いつものようにそっと部屋を出るのでした。
10時ぴったりにドアのチャイムが鳴りました。青木さんが出迎えに行くと、ドアの外にはお母さんと、うつむいた女の子が立っていました。
「どうぞお入りください。」そうお母さんに言ったあと青木さんは女の子に向かって
「よく来たね。どうぞ…」と肩に手を添えてカウンセリング室に誘導しました。
ソファに腰掛けてもらい、「お待ちください。」と部屋を出ると事務室に戻り、言いました。
「先生、大野さんが見えてます。」
その言葉を合図に一さんは椅子から立ち上がり、カウンセリング室に向かいました。
「おはようございます、大野さんですね。今回はどうされたのですか?」
そう声をかけたのと同時に、お母さんが目に涙をためながら話し始めました。
「夏休みが終わって、間もないころでした。美南が泣きながら帰って来たのです。何があったのか、尋ねるのですが泣いているばかりで…。
担任の先生にお電話で尋ねたら、教室でお漏らしをしてしまったということは分かったのですが、それからひと月になるというのに全く学校に行けないのです。」
話しながら、次第に声まで涙声になってきます。その隣で恥ずかしさに顔を真っ赤にした美南ちゃんも目に涙をためています。
一さんは二人の顔を交互に見ながら、美南ちゃんにこう尋ねたのです。
「美南ちゃんは、悲しくて泣いているの?」美南ちゃんは、こっくりうなずきます。
「うーん、そうかあ…でも、美南ちゃんは泣いても、泣いても悲しい気持ちがなくならないみたいだね?」
美南ちゃんはまた、うなずきます。
「その悲しいの、そろそろやめたくない?」
一さんにそう言われた美南ちゃんとお母さんは「えっ」という顔をすると顔を見合せます。
そんな親子に一さんはにっこりするとこう言ったのです。
「そろそろ本当の感情を出さないとね。」
訳が分からずぽかん、とする美南ちゃんに一さんは「悲しいのやめたい?」ともう一度聞きました。
「やめたい。」そう返事をした美南ちゃんに一さんはこう言いました。
「自分を悲しませるのをやめて本当の感情を見つけるというのが、美南ちゃんの「契約」だよ。契約っていうのは自分の中で自分とする約束なんだ。その約束を守るためにお手伝いをするのがセラピストなんだよ。」
そして「何があったのか、話してくれるかい?」と聞いたのです。
ぽつりぽつりと美南ちゃんは話し始めました。
美南ちゃんはその日、授業が始まる前におしっこに行きたいと思ったのですが、前の体育の授業の後、着替えるのが遅かったため、トイレに行けませんでした。
椅子に座って間もなく授業が始まったのですが、我慢できないくらいトイレに行きたくなってしまいました。おとなしい美南ちゃんは授業中に手をあげて「トイレに行かせてください」と言えず、とうとうお漏らしをしてしまったのです。
うつむく美南ちゃんに気付いた隣の子が先生に「美南ちゃんがおしっこ漏らしちゃった!」と言い出し、みんながざわつきだしました。
若い担任の先生は嫌そうな顔をして、廊下から雑巾を取ってくるとおしっこの上にポンと投げ、「触るのも嫌」といった感じで足で雑巾をつついて、爪の先で雑巾をつまんで持っていったというのです。
そこまで一気に話し終えると、美南ちゃんの目にまた、涙が浮かんできました。
「美南ちゃん、お母さん、今美南ちゃんが言った場面がビデオで上映されていると思ってください。その場面を見てどう感じますか?」
一さんがそう言ったとたん、美南ちゃんとお母さんの目からすーっと涙が消えました。
真剣な顔をしてその場面を思い浮かべている二人に、「先生がしたことは、悲しいと思いますか?怖いですか?腹が立ちますか?」一さんが尋ねると、まずお母さんが言いました。
「…とても腹が立ちます。こんな扱いをされて、かわいそう…」
美南ちゃんもしっかりと顔を上げて言いました。
「お漏らししたことだけでも恥ずかしくって辛いのに、足で片付けるなんてひどい!」
一さんはパイプ椅子を一つとりだし、二人の前に置くと、「ほら、先生が嫌な顔をして、雑巾を足で蹴りながらおしっこの片づけをしてるよ!どんなに嫌な気持ちだったか、言ってごらん!」
そう言ったとたんでした。美南ちゃんは椅子から立ち上がると、先生に見立てた椅子に駆け寄り、訴え出しました。
「先生、なんでそんなことするの!私は恥ずかしくて辛かったのに、先生にまでそんなことされて!とっても辛かった…」そう言いながら同時に椅子をひっくり返したのです。
その後は、ひたすら泣きながらその椅子を蹴り続けたのです。
気がつくとお母さんも一緒にその椅子を蹴っていました。お母さんは‘‘怒り”を使うことで、不当な扱いをした先生から、わが子を守ったのです…
「もう、終わったよ。」2人の肩に手を置くと、一さんは言いました。
涙の跡の残る顔でお互いを見つめる親子を促して、ソファにかけさせると青木さんにお茶を持ってくるように声をかけ、自分も向かいのソファにかけました。
青木さんが3人分のきれいなトレイにお花とチョコレートと一緒にセットされたコーヒー
(美南ちゃんにはジュースでしたが…)を持って来てくれる頃には、親子はずいぶん落ち着きを取り戻していました。
ゆっくりお茶を味わったあと、一さんが口を開きました。
「‘‘感情”っていうものは正しい使い方をするとスーッと消えていくものなんですよ。私たちは怖い・悲しい・怒り・喜びの4つの感情を生まれながらに持っています。これにはとっても意味があるのですよ。
‘‘怒り”というのはみんなよく勘違いしていて、人を攻撃したり、やっつけたりすることで人間関係を悪くしてしまうと思いがちです。でも、本当は‘‘自分を守るための感情”なのですよ。
怒りを持つことと攻撃することは全く別のことなのです。不当な扱いを受けたり、危ない目にあわされたりしたとき、怖がっていても悲しんでいても自分を守ることはできないでしょう?そのように扱われたことに怒りを持って、自分をそう扱われることが不当であることをきちんと相手に伝えないと。
美南ちゃんが泣いて帰ったとき、お母さんは心配して‘‘悲しみ”を使いましたが、本当は今のように、「悔しいよね!いやだったよね!」と‘‘怒り”を使ってあげていれば、守られた安心感で美南ちゃんは学校に行けなくはならなかったと思いますよ。
どう?美南ちゃん?思いっきり怒ったから、気持ちが楽になってるでしょう?
本物の感情を正しく使うと、いつまでも同じ気持ちを引きずることはないって分かった?
明日から、もう大丈夫だよね。」
二人が帰った後、青木さんのセラピーの勉強にと、今日の事例について話しながら一さんは言いました。
「‘‘間違った感情の使い方”をしていると同じ感情がいつまでも消えないんだ。ずっと悲しんでいる、いつも怒っている、常に怖がっているという人は間違った感情の使い方をしていることがほとんどだよ。
客観性という脳の力がまだ未熟な子どものころ、男の子がびくびくするな、めそめそするな、女の子が怒ったら見苦しい…etc。子どもは周りの大人のそんな反応をうかがいながら、どの場面でどの感情を使うべきか判断していくんだよ。感情を‘‘違う感情”に置き換えて使う癖がつくことで感情がうまく処理できなくて、いろんな問題が起こった結果、悩んでいるっていう人は案外多いものだよ。感情って結構厄介なものなんだ。自分のことはなかなか自分ではわからないからね。それも脳のふしぎなとこだけどね。」
翌日、早速学校に行くことができたと、カウンセリング中にお母さんから電話があったことを聞き、一さんは目を細めて喜びました。
その日のカウンセリングが済んだ後、事務所を後にした一さんは、家と反対の方向に足を向けました。歩いて数分の所に「奴(やっこ)」という小さな居酒屋さんがあります。
引き戸を開け、のれんをくぐると聞きなれた親父さんの声が出迎えてくれます。
「おや、鈴木さん、久しぶり!いいの、入ってるよ。」
そう言いながら、カウンターに腰かけた一さんの前にしばらくして出てきたものは…?
小アジの南蛮漬け!
「わぁ、おいしそうだ!親父さん、僕が南蛮漬け好きなの、覚えていてくれたんだ。」
早速、箸をつける一さんの様子に目を細めながら親父さんが言いました。
「鈴木さん、いいことあったみたいだね。」
えっ、と顔をあげた一さんの横に、看板娘のさっちゃんが駆け寄ってきます。
「あ、瑠実んちのおじさん、いらっしゃい!ちょっと!お父さん!さっき帰ったお客さん、帰りがけに私のお尻、触ろうとしたのよ!まったく、油断の隙もない!」
怒り冷めやらない様子で、話す娘に「どこのどいつだ、今度来たら塩まいて追い返せ!」と鼻息も荒い親父さんを見ながら、「ここの家は、上手に怒りを使えてるな、安泰、安泰。」
とつぶやく一さんでした。
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