すっかり日暮れが早くなった晩秋のある日でした。
「秋の日はつるべ落としってよく言ったもんだね。」
仕事が早く終わり、珍しく早めに帰宅した一(はじめ)さんがのんきに言う傍らで、早苗(さなえ)さんはハラハラして仁実(ひとみ)の帰りを待っていました。
「やっぱり、そろそろ携帯持たせた方がいいのかなぁ…でもインターネットとかで事件に巻き込まれるのも怖いし…仁実、なにしてるのかしら…」
辺りはそろそろ暗くなりかけているのに仁実がまだ戻らないため、早苗さんは気が気でなく夕飯の支度をする手もとどこおりがちです。
「仁実を信用してやりなよ。大丈夫だって。」
そう声をかける一さんに、珍しく早苗さんが「そんなこと言ったって!女の子なのよ、なにかあったら…!」と言いかけた時でした。
「ただいまぁ!ごめーん、遅くなっちゃった。」
あっけらかんとした様子で仁実が帰ってきたのです。
「帰ってくる途中でなんか変なおじさんに声かけられて怖かったから、コンビニに駆け込んでしばらく様子みてたの。あー、怖かった!」
事の次第を報告する仁実を見て、一さんは言いました。
「ほら、大丈夫だろう?事件に巻き込まれるのは確かに心配だけど、何かあったことを『怒られるから』『なんて思われるか…』って思って言えないまま心の傷が残ってしまうことも結構あるんだ。その点仁実はあったことを隠さずちゃんと話せるから、そういう意味で大丈夫だって言ったんだ。」
家の中がほっとした雰囲気に包まれる中、一さんは、一年前のちょうど今頃訪ねてきた女性のことを思い出していました。
「こんな女の子がいたんだよ。」
そう言って一さんは早苗さんに話し始めました。
「私、結婚したいって思っている人がいるんですが、なかなかあと一歩が踏み出せないんです。一回離婚の経験があるから、二の足踏んじゃうのかなあ…。」
沙希(さき)さんはそう言って肩をすくめて笑いました。
「前の主人、ひどいんですよ。飼っていた犬の鳴き声が原因で近所の人が怒鳴り込んできたことがあって、すぐに帰ってきてって電話入れたのに『鍵閉めて家に引っ込んでろ』ってそれだけですよ!?もう、即行実家に帰ってそのまま離婚しちゃいました、私。」
前のご主人への文句をひとしきりいうと、沙希さんはこう言ったのです。
「鈴木さん、催眠か何かで、ぱぱっと結婚を決断することができるようになりません?」
あっけらかんとそんなことをいう彼女に、一さんはいたって淡々といくつかの質問をしました。
小さい時の家庭環境、お父さんとお母さんの仲、兄弟の様子、学校のこと、育てられ方…
原因になりそうなことを一通り尋ねてみるのですが、これといったものが見つかりません。
一さんは心の中で引っかかるものがあり、思い切って尋ねてみたのです。
「違っていたらすみません。小さい頃、性的ないたずらをされたことはありませんか?」
沙希さんの顔から笑顔がすっと消えました。表情がこわばり顔色が真っ青になりながらも、沙希さんは気丈に答えました。
「…はい、小学校1年の頃だったと思います…」
辛さのあまり途切れがちになりながらも、ぽつりぽつりと彼女が話した内容はこんな話でした。
「一年生の頃、友達と遊ぶのに夢中になって帰るのが遅くなってしまったんです。ちょうど、今くらいの時期で、気がついたらどんどん暗くなってきて、走って家に向かっていたら、途中の小学校のところで、自転車に乗った高校生くらいのお兄さんに声をかけられて。立ち止まって聞いていると、すごい力で学校の敷地内に引っ張りこまれて、そこで…
びっくりしたのと、人に言ったら殺すと言われたので怖くて怖くて、泣きながら走って帰りました。…でも、家に着いたらお母さんたちが心配してたよって温かく迎えてくれて、あったかいお風呂とご飯があって…。あまりにも温かくて明るくって逆に何も言えなくなってしまったんです…。」
目にいっぱい涙をためながら、沙希さんは言いました。
「辛い話をさせてしまいましたね。その嫌な思い出に、今日ここでサヨナラしましょう。」
一さんはそういうと、沙希さんの前にドンっと大きな音をわざとさせてイスを一つ置きました。
「沙希ちゃん、あなたは暗くなった道を家に急いでいます。小学校が見えて来ました。
自転車に乗ったお兄さんが近付いてきた!ほら、もうそこまで!!あなたの手をつかもうとしているよ!」
そう言って一さんは男の人に見たてたイスをもう一歩前にドンっと大きな音をさせて沙希さんに近づけました。
たったそれだけ、昔の出来事に沿って再現して見せただけなのに、沙希さんは昔に引き戻されてしまい、真っ青になって動くことも、助けを呼ぶこともできずにいました。
その時です。
「何してるんだー!!こんな小さな子に!!」
大きな声とともに一さんはイスと沙希さんの間に割り込み、そのイスを思いっきりひっくり返したのです。
「…!!」
沙希さんは小さな子どものように一さんにしがみつくと大きな声を上げて、わんわん泣き出しました。
「悪い人はもうやっつけたよ!ほら、ひっくり返って動けないよ…沙希ちゃんもやっつけておいで!ほら、一緒に行こう!」
泣きじゃくる沙希さんの手を引いて一さんはひっくり返ったイスの前まで連れてくると、
もう一度「さあ、やっつけろ!」と背中を押しました。
言われてイスの前に立ったものの、泣きじゃくってなかなか手を出すことができずにいる沙希さんの代わりに、一さんはイスを蹴って見せました。
「おまえは、何てことするんだ!!」
それを見て恐る恐るイスを蹴りだした沙希さんでしたが、次第に抑え込んでいた怒りが噴出して来たのです…!
「このっ…この!!お前のせいで…お前のせいで…っ!!」
一さんはその様子をじっと見守っていました。これで彼女は救われた…その思いに胸をなでおろしながら…。
ワークが終わり、沙希さんが落ち着いた頃、一さんはゆっくり彼女を促してソファに座らせました。
しばらくじっと腰かけていたかと思うと沙希さんは深い深いため息をついて顔を上げ、一さんの顔を見ました。
「これだったんですね…私が結婚に踏み切ることができなかったのは…」
一さんはゆっくりとうなずき言いました。
「沙希さんは事件以来、男の人を信じないという決断をしていたんですよ。
性的ないたずらにあった子どもたちは口止めされたということもありますが、自分が悪いことをしたかのように思いこんでしまうことがよくあるんです。自分が悪いとか、自分が汚いとかね…。それでそのまま誰にも言えず傷が癒されないまま、心の底に重石のように残っていくのですよ。本人も気づかないままね。」
「…その通りです…ずっと、自分が汚いもののように思えてたまりませんでした…
もう、一生誰にも言わずにお墓まで持っていく秘密だって、そう思っていました…」
彼女はそう言ってもう一度、静かに涙を流しました。つらい過去とサヨナラする、そんな涙でした。
一さんはそっと声をかけました。
「沙希さん、結婚して幸せになりなさい。そして可愛い赤ちゃんを産んで幸せな家庭を作りなさい。」
一さんの言葉に沙希さんは、小さく、しかし力強くうなずいたのでした…
「あったことを家の中できちんと話せることって大事なのね。」
料理を作りながら話を聞いていた早苗さんは、お鍋を火にかけてしまうとカウンター越しに話していた一さんに言いました。
「大きくなってくると、別々に過ごす時間も長くなるからその間のこと話してくれなかったら親が知らないことってたくさんあるわよね…明るくふるまっていても話せないまま、心の傷になっていくなんて…なんだか、怖いわね。普段と違った様子がないか、本当によく子どもたちのこと見ていないと…大変なことになっちゃうかもしれないんだものね…
あっ、お鍋!!」
吹きこぼれそうになっているお鍋に駆け寄り、早苗さんが夕飯の仕上げにかかります。
そんな姿と、お風呂からあがってテレビを見ながら大声で笑っている仁実を見ながら一さんはしみじみ思いました。
世の中に誰にも言えないまま、心の中に重石を抱えた人がいったい何人いるのだろう…
どうか、そんな人のサインをキャッチしてくれる人が周りにいてくれますように…。
そう思ってやまない一さんでした。