「もう、20年以上も体の調子がいいという日がないんです。大きな病院を何か所も変わって検査したのですが結果はどこも同じで、異状なしなのです。これはもう、精神的な原因からのものとしか思えないのですが、思い当たることが見当たらないのです…。」
もしかしたら、という藁(わら)にもすがる思いで来たのでしょう、目の前に一(はじめ)さんが腰掛けるなり、加藤(かとう)さんは一気に話し始めました。
いかに体調が悪いか、延々と話す加藤さんの前で、話の内容は半ば聞き流しながら(!?)
一さんはその表情に見入っていました。
辛い話をしているにもかかわらず、加藤さんの顔は穏やかに微笑んでいるようにさえ見えるのです。しかし、一さんはその、悲しそうな眼を見逃してはいませんでした。
加藤さんの話が一段落したところで、一さんは優しい口調で言いました。
「加藤さん、あなたは悲しい話をしている時も笑顔で話していますよ。ご自分で気づいてらっしゃいますか?今までのお話は愉快でも楽しいものでもなかったはずです。
単刀直入に伺いますが、加藤さんは心から信用できる人が一人でもいないのではないですか?」
あまりにもストレートな問いかけに一瞬、答えに詰まった加藤さんでしたが、気を取り直しあくまでも穏やかに言いました。
「そんなはずないでしょう?私には妻もいるし、年老いた両親も健在で子どもたちだっているのですよ。」
取り繕うように答える加藤さんに一さんは言いました。
「あなたが悪いとせめるつもりはないのですよ。誰も信じることができなくてもいいんです。もちろん私を含めて…。もし信用できなくても私は怒ったりしませんよ。」
ただし、と一さんは続けます。
「カウンセリングは信頼関係がないと進めることはできません。加藤さんが私を信じることができないといわれるのであればこのカウンセリングは成立しないのですよ。
私はしばらく部屋から出ていますから、よく、考えてみてください。」
そういって一さんは部屋を出て、事務所のデスクに戻ると、青木さんに言いました。
「コーヒーを一杯くれる?」
何が起こったのか分からないまま、青木さんはコーヒーを入れると一さんの前に置き、興味津々なのを悟られないようにいたって平静を装いながら言いました。
「先生、加藤さんの方はコーヒーどうしましょう?」
気になっている様子が(隠そうとしているのに!)ありあり…という風情の青木さんにクスッと笑いながら一さんは答えました。
「加藤さんはしばらくそっとしておいてあげて。まだゆっくりお茶を飲む心境じゃないはずだから…。」
ゆっくりとコーヒーブレイクを取った後、一さんはカウンセリング室に戻っていきました。
笑顔が消え、真剣な表情をした加藤さんを見、一さんは心の中でうなずくと、こう言いました。
「加藤さん、腹が決まったようですね?」
「はい。私は、今はまだ鈴木さんを全面的に信じることはできません。でも、信じる努力はしようと思っています。これでもいいでしょうか?」
その言葉に加藤さんの本気を感じ、一さんはこう聞きました。
「これから信用して行く、そう自分に約束できたのですね?」
「はい、悪いのですが今からそうなるようにしていくつもりです。」
その言葉が心からのものだということは、加藤さんの表情からうかがい知れました。
一さんは手を差し出しながら言いました。
「いいですよ、今はそれで…。」
差し出された手を握り返しながら加藤さんの眼には安堵の色が浮かんでいました。
「私は小さい時から兄弟姉妹でも結婚したら他人だ、と聞かされて育ちました…」
幼い頃の話を、加藤さんは一つ一つ記憶を掘り起こすようにゆっくりと話し始めました。
血がつながった兄弟でもそうだ、ましてや他人など信用できたものではない、幼い加藤さんにはそんな思い込みが刷り込まれ、「人を信じる」ということができなくなってしまったのです。
「私は男ばかりの5人兄弟の末っ子で、予定外の子どもでした。父親は『またか。』といったっきり数日名前も考えなかったそうです。ある程度大きくなった頃に聞かされたのですが、それ以前から自分は望まれていなかったと肌で感じてはいました。もちろん両親は何の不足もなく育ててはくれましたが…。」
「分りました、加藤さんちょっとこっちに来ていただけますか?」
一さんは言うと、ソファから加藤さんを立たせ、イスの前に連れていきました。
「加藤さん、そのイスにかけてもらえますか?」
「あ…はい。」
加藤さんは何が始まるのか…といった顔でイスに座りました。
一さんは、お人形を一つ持ってくるとイスの前の床にそっと置きました。
「加藤さん、見てください。この赤ちゃん、このままだと、どうなりますか?」
加藤さんは、訳が分からないまま、ジッとお人形を見つめて言いました。
「どうなるかって言われても…」
一さんはもう一度、言いました。
「加藤さん、その赤ちゃんはあなた自身ですよ。お父さんとお母さんに『この子可愛いでしょう?見てちょうだい。』ってお願いしてください。」
「??…お父さんお母さん、この子可愛いでしょう?見てちょうだい…」
「どうですか?お父さんとお母さんは見てくれますか?」
「…いいえ、見てくれません…」
一さんは少しだけ声を強めるともう一度言いました。
「しっかり頼まないと、この子死んでしまいますよ!」
一さんの迫力に押されたように、加藤さんはだんだん真剣に両親に語りかけていました。
「お願いだ!お父さんお母さん、この子を見てくれよ!!」
じっと人形を見つめる加藤さんに、少し時間をおいて一さんは聞きました。
「どうですか、ご両親は見てくれましたか?」
加藤さんは茫然とした顔をして言いました。
「いいえ、見てくれません…」
「あなたはどうですか?」はじめさんが言った瞬間、はじかれたように加藤さんが顔をあげました。
「あなたは、この子をどうするんですか!!あなたがしていることも、ご両親と一緒です。このままでは、この子は死んでしまいますよ、それでもいいんですか!!」
思わず、加藤さんはその人形を拾い上げていました。後から後から、涙があふれ止まりません。人形を抱きしめたまま号泣する加藤さんを、一さんは優しいまなざしで、しばらく見守っていました。
「…私が面倒をみます…もう、両親には頼みません…」
一さんは加藤さんがやっと気づいてくれたことにホッとして言いました。
「そうです、あなたもこの子をほったらかしにしていたのですよ。ご両親が『予定外の子だった』と言われた過去はもう変わりません。今のあなたが自分自身を守っていかないと!」
人形を抱きしめ、しばらくの間涙を流した後、ぽつりと加藤さんが問いかけました。
「こんな私でも、生きていく価値はあるんでしょうか?」
「もちろんですよ。あなたには生きていく価値があります。」
そういうと一さんは、加藤さんから人形を受け取ると加藤さんの方に向け聞きました。
「この子はこれからも病気をする必要がありますか?」
頬を涙で濡らしたまま顔をあげた加藤さんは力強く言いました。
「いいえ、もう病気になる必要はありません。」
その表情は何かが吹っ切れ、すっきりとした表情でした。
十日後加藤さんはもう一度カウンセリングに来所しました。
「体調はどうですか?」と尋ねる一さんに、加藤さんはこう答えました。
「1、2度、ちょっと…ということがあったのですが、『これは自分がしていることだ』と考え出すと不思議と落ち着いてくるんです。」
「そうですか、よかったですね。もう体調を悪くして誰かから面倒みてもらわなくても、あなた自身がしっかり自分を守れるようになったからですよ。」
「優しい親だったのに、一度、できた時は望まれていなかったと聞かされただけで自分の存在を肯定できなくなってしまうなんて…自分でも全く自覚がなかったので驚きました。それが原因で病気まで引き起こして…ここに来なかったら、一生を無駄にしていたかもしれません。自分で自分に謝りたいくらいです。」
一さんはにっこり笑うと言いました。
「10歳くらいまでは脳が完成してなくて客観性が育っていないから、周りの人が何気なく言った一言でとても傷ついたり、自分はいらない存在だ、価値がないんだと思ったり、心の傷になることがよくあるんです。虐待などではない限り、大人の方も自覚がないまま、子どもに大きなトラウマを負わせてしまうこともあるのです。もちろんわざとではなくてもね。加藤さんが持っていたような思い込みは命に直接影響を及ぼすものなので、本当に厳しいトラウマなんですよ。自分の存在を認められない人が幸せになれるはずがありませんからね。
前回のワークであなたは自分の存在を受け入れることができたので、体調を自ら崩したり、人を信じないことで自分を守ろうとするトラウマも解決していくはずです。
どうですか?そろそろ私のことを信じる気になって来ました?」
最後は茶化すように聞いてきた一さんに、加藤さんは力強くうなずいて言いました。
「はい、やっと人を信じるということがどんなことなのか分かって来ました。人を信じるということは居心地のいいものですね…。最近なんだか肩の力を抜いて人と話せるようになって来ました。『信じる』ってこわいことではなかったのですね…」