「私もう、辛い恋愛はしたくないんです…」
そう言って真由子(まゆこ)さんはハンカチを握りしめました。
「なんで私いつもこうなってしまうんでしょう?これをやめることって出来るんでしょうか?」
今回真由子さんがカウンセリングに来るきっかけとなったつい最近までの恋愛でも、彼女はわがままな彼に散々振り回されてきました。もう耐えてばかりのつらい恋ではなく、楽しい恋がしたい、そう言って涙をにじませた彼女に一(はじめ)さんは言いました。
「じゃあ、なぜこうなってしまうのか、二人で分析してみましょう。」
一さんは向い合せにイスを置くと、そのひとつに座り向かいのイスをさして言いました。
「僕の向かい側に座って、一緒に分析してみましょう。この椅子に座るのは客観的なあなたですよ。僕たちの隣の椅子に恋愛がうまくいかなくて悩んでいる真由子さんが座っています。どうしていつも上手く行かなくなってしまうんでしょうね?」
真由子さんは空のイスをじっと見つめていましたが、力なく首を振りました。
「…分かりません。どうしてなんでしょう?」
そうつぶやきながら彼女の眼にはまたじわっと涙があふれて来ました。
一さんはもうひとつイスを置くと聞きました。「このイスの男性は皆がとてもいい人で、申し分ないという人です。向こうのイスに座っているあなたにはどう見える?どんな目線で見てると思う?」
真由子さんはじっと見つめていましたが、自分でも意外だったのか、首をひねりながら言ったのです。
「…一段高いところから見下ろしているような感じです。」
「この人があなたに好意を持って近づいてきたらどんな感じ?」
じっと椅子を見つめて考え込みながら、真由子さんは言いました。
「いくらいい人と言われても魅力を感じないというか、興味がわかないというか…なんだか距離を置きたい気がしています。」
そう答えるのを待っていたかのように、一さんはもう一つ椅子を持ってきて言ったのです。
「この人は、ちょっとワルくて、わがままで、自分勝手な人です。この人もあなたに興味を持っているみたいです。あっちのイスに座っているあなたはどんな感じがしていますか?」
今度は心底驚いた顔をして、真由子さんは言いました。
「…とても気になります…」
その椅子の背を向けるように回転させ、彼女から離れていくしぐさをさせ、一さんは言いました。
「この人があなたに背を向けて立ち去ろうとしています。向こうのイスに座っているあなたはどう感じていますか?」
「…とても魅力的に見えます…」
「どうしたいと思っていますか?」
「追いかけていきたい、と思っています…!」
一さんは、二人で分析していたイスの後ろにもう一つイスを置きました。
「今まで僕たちが分析していた前にイスに座っているあなたは、人からどう思われるかといつもびくびくしています。後ろのこのイスに座っている、去っていく男の人を追いかけたいと思っているあなたはどう思っていますか?」
真由子さんは言いました。
「追いかけて行って、どうにかして振り向かせたい、自分の思い通りになってほしいと思っています。」
「自分勝手な男の人に振り回されているあなたと、男の人を思い通りにさせたいあなた、どっちが本当の姿だと思いますか?」
真由子さんはうつむきながら言いました。
「…思い通りにしたいと思う後ろのイスです…」
一さんは優しく声をかけました。
「このイスに座ってごらん。なぜ、男の人を思い通りにしたいと決断してるの?」
真由子さんはその椅子に腰かけたとたん、自分でも知らないうちに涙があふれて来ました。
「私が5.6歳のころだと思います。父は夕方になるとふらっと出かけては飲み屋さんに入り浸って夕飯時になってもなかなか帰って来ませんでした。すると母がすごく不機嫌になって私に言うんです。『またどこかで引っかっているから見つけて連れてきて!』と。
私は父を捜しまわりやっとのことで見つけて帰ろうというんですが、父は私の言うことなんか聞いてはくれませんでした。連れて帰らないと母からひどく叱られてとても辛かった…絶望的な気持ちになって、消えてしまいたいくらい…本当に消えたかった…
小さな私にはどうすることもできなかったんです…」
彼女の眼からは後から後から涙があふれ止まりません。
『お父さんを何とかしないと、私がお母さんから叱られる』
これが彼女の決断だったのです。
一さんはゆっくりと真由子さんの前まで来ると床に膝をつき、座っている彼女の目線まで下りると話しかけました。
「あなたは男の人にお父さんの顔を付けて見ていたんです。『この人(お父さん)に私の言うことをきかせないと、お母さんから叱られる』ってね。
そうして自分の思い通りにならないような人を見つけては近づいて振り回されて…小さな女の子が何とかしないとってあわてているようなものですよ。これで恋愛がうまくいくはずがありません。
トラウマに縛られた古い脳は自分がお母さんに叱られる小さな女の子ではなくなっていること、つまり時間がたってその決断が要らないほど大きくなっていることに気付かないから、同じパターンの恋愛をさせては『やっぱり、お父さんをどうにかしないとお母さんに叱られる』とますます思い込ませていくんですよ。
意識の部分の新しい脳では、辛い恋愛はしたくないと思っていてもね…。」
その分析を聞いたとたん、真由子さんは深いため息をつき、言いました。
「長かった…。」
真由子さんが顔をあげたとき、一さんは言いました。
「『お母さんに叱られる』と思い込んでいる小さな真由子さんにもう大丈夫だから、その決断はもういらないよって教えてあげなさい。」
すっきりとした顔をして真由子さんはイスに向かって言いました。
「もう、男の人を思い通りにしなくてもお母さんからは叱られないよ…」
その眼にはホッとしてにっこりと笑う、小さな彼女自身が見えているようでした。
「ずいぶん、すっきりとしたお顔されていましたね。」
カウンセリング室の片付けを済ませ、一さんに新しいコーヒーを淹れてきてくれた青木さんが尋ねると、一さんが言いました。
「うん、彼女はこれから先、もうわがままな人に魅力を感じるということはないはずだから、優しい人と恋愛していけると思うよ。
彼女が迎えに来た時に、お父さんが『真由子が来たなら』って一緒に手をつないで帰ってさえくれていたら、彼女は今頃優しい男性と結婚してかわいい子どもに囲まれたいい奥さんになっていたかもしれないのにね。」
「先生、どうしてそんな大変な人に魅力を感じてしまうようになっちゃうんですか?」
淹れたてのコーヒーの入ったカップを両手で包むように持って香りを嗅ぎ、一口すすると一さんは言いました。
「客観性の未熟な子どもの頃の経験からした決断は、ある意味生き延びるための決断だからね。成長した自分には、いらない決断だって気づかれて思い込みを解かれることは、決断が刷り込まれている古い脳にとっては命が危険と感じるくらい大変なことなんだ。
だから、古い脳は客観性をもった新しい脳にそうと気づかれないようにいろんなトリックをかけるんだ。一人の人の脳なのに古い脳と新しい脳が違う思惑で動いているなんてすごいだろう?古い脳は命を守ろうとして、新しい脳は幸せになろうとして、働くんだけど、そこにトラウマがあると利害が一致しなくなることがあるんだよ。
トラウマを解決しないと新しい脳、つまり意識上では苦しむだろう?でも古い脳は命を守る決断を破られなくてホッとするんだ。
真由子さんの場合も、お父さんを連れて帰らないとお母さんに怒られるイコール男の人を何とか思い通りにしなくてはならない、と思い込んでいたから、その思い込みの通りになるような人がとても魅力的に見えるように脳がしてたんだ。すごく不思議だろう?
子どもって両親がいつもケンカしていると自分のせいのように思ってしまうとこがあるんだ。彼女も『私がお父さんを連れて帰ることができれば、お父さんとお母さんはケンカなんかしないだろうに…』って自分を責めていたと思うよ。自分さえいい子だったならってね。
その小さな罪悪感にさいなまれる子どもはどれだけたくさんいるか…それを考えると、心が痛むよ。」
一さんの説明を聞き、納得!のため息をつきながら、青木さんがつぶやきました。
「子どもにとって安心できる環境って本当に大事なんですね…間違った思い込みをしてしまったら、大人になってもずっと苦しんでしまうんですものね…本当は命を守るために決断するのに、それが逆に足を引っ張ることになってしまうなんて、皮肉ですね…。」