ほら、あの子を連れておいで…。
あの、隅っこに置いてけぼりにされて泣いているあの子を一緒に連れておいで。
あの、優しい子が本来のあなただよ。もう、呼び戻してあげなくっちゃ。
「地球温暖化ってどこ行っちゃったんでしょうね。ちょっと暖かくなってほっとしたかと思うと、ものすごく冷え込んでくるし。世界的にもすごいらしいですね、この冬の寒波は。」
一(はじめ)さんが事務所に到着するなり、寒がりの青木さんが開口一番に言いました。
「寒くて寒くて、ダウンにブーツ、ニット帽にマフラー、それからカイロ!!しばらく手放せそうにないですね。…それにしても先生は薄着ですねえ。」
「え?そうかなあ。」
コートの下はコットンのシャツ、という出で立ちの一さん、「歩いてくると暖かいよ。」
と言いながら、ここのところの冷え込みでやっと登場したマフラーを外しながら言いました。
「子どもの頃は、もっと寒かった気がするけどなあ。」
温かいコーヒーを入れようと、手早く掃除を済ませた青木さんはそそくさと給湯室に向かいます。
しばらくすると、コーヒーのいい香りがただよい始めました。
「来た時は事務所に入っただけで温かいって思うのに、暖房入れたとたん、給湯室に行くだけでも寒いですねえ。」
本当に寒いといった顔をしてコーヒーを運んできた青木さんに「ありがとう。」と言って
コーヒーを受け取ると、一さんは本当においしそうにコーヒーを一口すすりました。
「寒さに強いって言っても、やっぱり、温かいコーヒーはありがたいね。」
温かいコーヒーカップを両手で包みこんで、しみじみという一さんに、青木さんが言いました。
「そうでしょう!先生にも寒がりの気持ち分かってもらえました?」
そんなことを話しているうちに、外では雪がちらついてきました。
「わあ、先生雪ですよ!!せっかくだから積もらないかなあ。」無邪気に言う青木さんに
「あんなに寒いって言ってたのに…」怪訝(けげん)そうな顔をしながら一さんが答えると、青木さんはけろりとして言いました。
「それとこれとは別ですよぉ。雪景色ってロマンティックじゃないですか!?」
「…そういうもんなの?」一さんは頭の上に「?」マークがついていそうな顔で答えた時です。
電話のベルが鳴ったのです。
「おはようございます。鈴木カウンセリング事務所です。」
さっきまで嘘のようにシャキッとした口調で青木さんが電話口で応対します。
「いつもながら、素早い変わり身だなあ…。」
妙な所に感心していると、聞こえたのか聞こえないのか(!?)青木さんが澄ました口調で言いました。
「先生。できるだけ早くいらっしゃりたいということですけど。ちょうど、今日の午前中は空きがありますからおいでいただいてもよろしいですか?」
一さんは首をすくめて答えました。
「はい、おっしゃる通り、働かせていただきます…。」
カウンセリングの開始時間ぴったりに現れたのは見るからにキャリアウーマンといった感じの女性でした。
「坂田美沙紀(さかたみさき)と申します。」
隙のない動作で、スッと名刺を取り出すと彼女は一さんに名刺を渡しました。
一さんはその名刺を受取ると、入り口近くに立っている彼女をソファに誘導し言いました。
「坂田さんですね。セラピストの鈴木一と言います。今日はどうされました?」
ソファに座ったものの、なかなか言い出せない様子の坂田さんを見て、一さんは会釈をすると事務室へ顔を出し、「青木さん、コーヒーちょうだい。」と言いました。
そのまま、カウンセリング室に戻ると一さんは言いました。
「今日は寒かったでしょう?まず、コーヒーブレイクといきましょうか。
お話はその後で…。すべてを上手に話そうって思わなくて大丈夫ですよ。」
坂田さんははっとした表情をしましたが、そのまま黙ってうつむいてしまいました。
間もなくコーヒーが運ばれてきました。
青木さんの顔を見たとたん、坂田さんの顔が、始めに入ってきたときのような隙のない顔になりました。
「有難うございます。」というと、彼女は上品にコーヒーを一口すすりました。
何事もなかったかのように、一さんの前にもトレイを置くと青木さんは「失礼しました。」と会釈してワゴンをひき、カウンセリング室から出て行きました。
青木さんが退室した後、一さんは坂田さんをまっすぐ見て言いました。
「坂田さん、あなたが相談したいことはそういうことなのですね?」
坂田さんの目に、一瞬驚きの色が浮かんだあと、その瞳がみるみる潤んできたのです。
「…はい、もう苦しくて、苦しくてたまらないのです…」
しばらく涙を流した後、坂田さんはコーヒーを飲んで気分が落ち着いてくると、今度はすんなりと話し始めることができました。
「私のうちは両親のけんかが絶えなくて、小さい頃から早く家から出たい、と思う日々でした。些細(ささい)なことからけんかが始まるとののしり合ってモノが飛び交い、私は一つ違いの弟と、狭い家でしたので隠れるところもなく、部屋の隅っこでただ、けんかが早く収まるように祈りながら縮こまって震えているばかりでした。
中学を卒業すると同時に、私は家を飛び出しました。全寮制の高校に入り、大学も離れた所に進学し、奨学金とバイトで学費と生活費をまかないながらやっとの思いで卒業しました。周りが勉強もそこそこにバイトと遊ぶことに明け暮れているのを見ながら『今に見てろ』と自分を奮い立たせてがんばったんです。
その甲斐あって、一流の会社に就職を決めることができ、当時は両親や遊んでばかりいた同級生に勝ったという優越感でいっぱいでした。…でも、それも長く続かなかったんです。
私がいくらがんばって仕事をして、昇進しても裕福な生活を手に入れても、何かが満たされないんです。自分でも分かってはいるんです。皆が私に近寄りがたく思っているということは…。
なんでこんなに努力してきたのに、私の周りからみんな離れて行ってしまうのでしょう…。
鈴木さん、いったい私の何がいけなかったのでしょうか?」
話を聞き終わると一さんは向こうにあるイスを指さして静かに言いました。
「坂田さん、失礼ですけどおいくつですか?」
「37歳ですけど。」
「じゃ、背筋を伸ばして『私は37歳です。自律した一人の大人です。』と言ってごらん。」
坂田さんは言われるがままに、背筋を伸ばして立ち上がるといいました。
「私は37歳です。自律した一人の大人です。」
「37歳のあなたのままで、お父さんとお母さんがけんかしているのを泣いている女の子を見てごらん。幾つに見える?」
坂田さんはじっと椅子を見つめていましたが、ため息をついて言いました。
「…ああ、まだ5歳くらいに見えます…」
「そうだね、5歳の頃にはあなたはもう、人の中に所属することは苦痛だって思っていたんだよ。それじゃ、みんなの中でうまくやっていけないよね…。」
「…。」うなだれたまま、坂田さんはソファに座りこみました。
「向かい側のイスに座ってごらん」
言われたとおり、小さな女の子のイスの前に置かれたイスに座った坂田さんに、一さんは言いました。
「37歳の自律した大人のあなたから、『私がいるから大丈夫だよ』って声をかけてあげてください。真剣に分からせてあげてくださいね。」
坂田さんは小さな女の子のイスに向かって言いました。
「私がいるから大丈夫だよ。」
そう言ったままじっと動かない坂田さんに一さんは聞きました。
「なんて言ってる?」
「…信じられないって言ってます…」
一さんは言いました。
「ほら、あの子を連れておいで…寂しくって隅っこに逃げて行って泣いているよ。
あの、隅っこに置いてけぼりにされて泣いているあの子を一緒に連れておいで。
あの、優しい子が本来のあなただよ。もう、呼び戻してあげなくっちゃ。」
坂田さんの目から涙があふれて来ました…
「美沙紀ちゃん、辛かったね。家にいるのが辛くって飛び出したあの日に、優しいあの子を置いてきてしまったんだよね。人に負けちゃいけない、強くなきゃいけないって思いこんでここまでがんばって来たんだよね。ありがとう。でも、もう大丈夫だよ。美沙紀ちゃんはもう立派な大人になって、人と争わなくても上手に付き合っていくことも仲よくすることもできるはず。さあ、優しいあの子をそろそろ呼び戻してあげようよ。」
坂田さんは思わず一さんが指した部屋の隅の観葉植物の近くに駆け寄ると、しばらくしゃがみこんで泣きました。「ごめんね…」と言いながら。
柔らかな表情になった坂田さんを見送って、青木さんは驚きを隠せない表情で言いました。
「先生、来られた時は『私に近づかないで!!』オーラ全開って感じでしたけど、すっかり変わられましたねえ。いったい何があったんですか?」
「彼女はね3次元の目で自分を見ることを覚えたんだよ。」
「なんですか?3次元の目って??」
「最近思いついた理論なんだ。何人かの人に使ってみて、上手に説明ができるようになったら、教えてあげるよ。それまでおあずけ!」
「そんなあ…。」
むくれ顔の青木さんをよそに、窓から外を見た一さんは思わず歓声を上げていました。
「青木さん見てごらん!雪積もってるよ!!」
「えーっ!!ほんとですか?」窓に駆け寄り外を見た青木さんは歓声をあげました。
「わあー!!すごい!!何年ぶりでしょうね、こんなに積もったのは!もうお昼休みだから、私ちょっと雪だるま作ってきていいですか?」
「え?寒いんじゃなかったの?」
そんな一さんのつぶやきを知ってか知らずか、青木さんはダウンを着込むと飛び出して行ってしまいました。
「やっぱり、若いなあ。」
一さんは笑いながら、愛弟子の姿を窓から見守っていました。