「先生、お茶入りましたよ?」
青木さんに声をかけられて、一(はじめ)さんはハッと顔をあげました。
「あ、あぁコーヒーね…ありがと。」
そう言ってカップを手に取りコーヒーをすする一さんの様子を見て、青木さんが言いました。
「先生、また理論の世界に飛んでってましたね?今度は何の理論ですか?」
カウンセリングやセラピーに関わる理論を考え出すと、その世界にどっぷり浸かってしまう一さん。その様子をいつも間近に見ている彼女は、今回はどんな話が聞けるのかとわくわくしています。
「この間、早苗(さなえ)さんが後からお弁当持って来られた時、おっしゃってましたよ。『お風呂でもトイレでも突然、おもしろい理論思いついた!忘れないうちに話すから覚えといて!
って私のこと呼ぶのよ。いつも、頭のどこかでセラピーのこと考えてるみたい。それが苦にならないのよね、ホントに好きなのよ。』って。」
「ははは…なんか、オタクみたいな言われ方だなぁ。でも、ある意味この仕事も職人的なとこあるし、俺、オタクなのかもしれないなぁ。今まで気づかなかった…。」
「…先生、話のスジがずれて行ってますけど…。」
青木さんが新しい理論のことに話を戻そうとしていたその時でした。
ピンポンとインターホンが鳴ったのです。
「どなたでしょうね。まだ、予約の時間じゃないんですけどね。」
そう言いながら、青木さんが出迎えに出てみると…そこに立っていたのは田中さんでした。
「久しぶりだね、青木さん。鈴木さんはいるかい?また、ちょっと心配な子がいてね。ちょっと昼休みの間、話聞いてもらってもいいかな?」
ご近所の田中さんは建設業のかたわら、人の相談に乗ってあげたり、ちょっと気になる引きこもりがちな子や、ちょっとぐれかかっているような子を預かっては、バイトをさせながら世話を焼いてあげたりと、地域の相談役のような存在で、一さんとは釣りの釣果(ちょうか)を自慢しあう(!?)友人でした。
田中さんを通じて、ここにカウンセリングを受けにきた子たちも何人もいます。
一さんのほうから、しばらく預かってバイトさせてもらいながら、外の世界に慣れさせて欲しいとお願いすることもあるくらい、お世話になっている田中さんのお願いを、一さんが断ろうはずもありません。
「久しぶりですねえ。最近はどうですか?」
カウンセリング室にソファにかけるよう勧めながら、一さんは青木さんにコーヒーを持ってきて、と目配せしました。
「いやね、うちに前からいる子で出来のいい子なんだが、どうにも自分に自信がなくって、ちょっとしたことですぐに落ち込んでしまう子がいるんだ。いい学校も出てるし、勉強もしていろんな資格も持ってるし、うちに来てからだって、現場で扱う重機の資格やらパソコンやら果てには英検まで取ってしまうくらいのがんばり屋だから自分に自信が持てないことがもったいなくってな。いくらおまえはすごいんだぞって言ってやったって『そんなことないです』の一点張りなんだ。どうしたものかと思って、知恵を借りに来たんだ。」
ちょうど話が一区切りした絶妙のタイミングで運ばれてきたコーヒーを、美味しそうに一口飲んでため息をついた田中さんに一さんは言いました。
「よっぽど厳しい育てられ方したんですかねえ。」
田中さんが言うには、上のお兄さんとお姉さんがそれぞれ抜群に成績がよく、それに比べて…とよく言われていたらしいのです。
「…ああ、そうか。だから、司令塔が厳しいんだなあ…。」
「なんですか、鈴木さん。その『司令塔』って。」
「ええ、最近まとまってきた理論の考え方なんですけどね…」
そう前置きして、一さんは「3次元の目」について話し始めました。
人の頭に中には内臓のように形が目で見えるわけではないけれど、精神器官といわれる、いろんな自我を作り出す働きをする部分があるんです。
大きく分けると、
いろんな欲求(夢や希望などもね!)が湧いてくる「子ども(以下チャイルドのC)の自我」
自分にやさしい言葉をかけたり、保護したり、時には厳しい言葉も掛けてしまう「親(以下ペアレントのP )の自我」
客観的な情報収集や判断、分析、計画をする「成人(以下アダルトのA)自我」
の3つに分かれています。
自分で自分の中の傷ついた小さな子どもを育てる心理療法を「セルフリペアレンティング」というんですが、この時大切なのはP(ペアレント:親)がどれだけC(チャイルド:子ども)に効果的な保護や許可(大丈夫だよ・あなたならできるからやってごらん、といった後押しやフォロー)をできるかという点なんですけど、小さい頃、大人からそのように扱われた経験のない人は「P」自体が自分を守ってあげられるほど育っていない場合が多いんです。
カウンセリングにきた人がそんな状態だった場合、まずはカウンセラーが「P」を使ってあげます。本来、親が小さい子どもにかけてあげるような優しさや保護、後押しをしてあげると、それをモデルにして本人の「P」 が育っていくんです。普通は、「P」が成長するにつれて、親的な役割をする大人がいなくても自分で自分に保護や許可をできるようになっていき、親離れしていくわけです。
そうでなくても、カウンセラーの「P」をモデルにして自分を育ててくれる親的な自我「P」を育てることができるので、次第にカウンセラーに守ってもらわなくても自分で自分を守っていけるように自律していけるんですよ。
3つの自我のうち、「A」(アダルト:成人の自我)と「C」は直接やり取りはできないのですが、「P」が成長してくると両方の自我を橋渡しできるようになります。これは「P」が「C」へかけてあげる保護や許可が、思い込みだけでなく情報がきちんと分析され客観的な裏付けがされているってことなんです。
自我の中に客観性で裏付けられた保護と許可が出来上がるということは、自分の中にきちんとトラウマに左右されずに、情報収集と分析、判断ができるうえに自分を守ることができる『司令塔』を持つことができるっていうことなんですよ。
ほとんどの人は大なり小なりトラウマを持っています。小さい頃客観的に判断できないために、自分に否定的な思い込みを持ったり、偏見を事実だとインプットしたり…。
そんな大小の思い込みにどこまで気づき、修正できるかは成人の自我「A」がどこまで客観性を持っているかによります。
Pが大きく成長することで「A」に届くと、
自分の自我をコントロールする『司令塔』が客観的な分析や判断力をもったものになるんです。
僕はこれを「3次元の目」と名付けたんですよ。
誰でも自分をコントロールする司令塔を持っていますけど、それが3次元の目を持っていなければ、必要以上に自分に厳しかったり、問題解決に向かわない行動をしてしまったりするんです。
田中さんが心配している人は厳しい司令塔を持っていて、いくら努力しても納得してくれないんだと思いますよ。
ちなみに1次元は自分自身を定義する目で、トラウマによって自分に対するマイナスイメージや自己否定的な思い込みで自分を定義します。引きこもっている子たちはこの次元にいることがほとんどでしょうね。周りの人や社会とのつながりを考える次元はもう一つ上の2次元の部分なんです。
2次元は自分対人、自分対社会を見る視点です。といっても、トラウマがあるとその影響を受けるから、「人からどう見られているんだろうか」「世の中は冷たい」って言ったような思い込みからの対人、対社会の視点なんですけどね。ここにいてもトラウマのフィルターを通してしか物事を見れないから、司令塔も客観的には働けないし、当然問題も解決には向かわないんですよ。本人は必死に悩んでいても情報や分析、判断自体がトラウマを通しているからそうなってしまうんです。
他人が見れば、「ああすればいいのに」「もっとこうすれば」と分かることでも、ここの視点には客観性はないのでそれが分からないまま悩んでしまうんですよ。
3次元の目は、もう分かりますよね。自分対自分、自分対人、自分対社会を第三者的な視点で見れる目です。自分と人や社会との関係を一歩引いて客観的に見て分析・判断・行動させる「客観的な司令塔」的な視点です。
ここでは、イスを使い分けることでそれぞれの自我や次元に身を置き対話させることで自分の状態に気づき、思い込みを解き、トラウマを解決するお手伝いをするんですよ。
1次元や2次元の視点の中だけで悩んでいる人がいたら、そこから抜け出した3次元の目っていう考え方があることを話してあげるだけでも、ずいぶん違うと思いますよ。
ここまで聞いた田中さんは「うーん…。」とうなり、ぽんっと膝を叩くといいました。
「そうですか…司令塔ねえ。どう説明すればそれを分からせてあげられるかなあ。」
一さんはちょっと考えてこう言いました。
「あなたに『こんなんじゃだめだ』って厳しい声をかけ続けている人がいるよねって教えてあげるだけで、『3次元の目』に気づきが生まれるはずですよ。自分がしてることという自覚ができれば、やめることもできますからね。そして、何かができなくても、何かを持っていなくても、生きているだけでいいってところに自分を降ろしてあげたら、きっと楽になるよ、っていってあげたらいいと思いますよ。」
「自分を降ろすって言うとレベルが低くなるとか、甘やかしているような感じに聞こえるがなあ…?」
「自分にあまりに高すぎる要求をしないってことなんですよ。卑下しているわけでは決してないんです。地に足を付けて、自分のことを無条件に受け入れてあげるということなんですよ。」
「なるほどねえ…そういうことですか…。うん、いい話を聞かせてもらったよ、鈴木さん。
お礼に今度、一杯おごらせてもらうよ。」
田中さんはお礼を言って席を立つとカウンセリング室から出て、「青木さん、コーヒー美味しかったよ。」と事務所にいた青木さんに声をかけました。
「鈴木さんにいい話聞かせてもらったよ。『3次元の目』試してみるよ。」
パタパタとデスクから立って見送りに出てこようとする青木さんに、もういいよ、と手で合図すると、田中さんは帰っていきました。
「…本当に、忙しい方ですねえ。ソファに座ってらっしゃったのって、コーヒーを一杯飲む時間くらいでしたよね。…って、田中さんの方が先に3次元の目の理論、聞いてるじゃないですか!!ずるいですっ!先生、弟子の私が後回しってどういうことですか!」
「だって不可抗力でしょ、突然だったんだから…。」
青木さんの勢いにたじたじとなる一さんに、青木さんはさらに言いました。
「こうなったら、今すぐに話してもらいますっ!いいですね?」
「えーっ…もう一回、同じ話ししないといけないのか…。」
やれやれ、今日のお昼休みはこれでおしまいだな…そう呟きながらも、愛弟子のために話し始める一さんでした。