ある日、一(はじめ)さんのもとに20年来のうつ状態で苦しむ木下真佐子(きのしたまさこ)さんという女性が訪ねてきました。
「ずっと長い間、こんな感じなのです。体は辛いし気持ちも前向きになれなくて…
もう、何件精神科や心療内科を回ったか分からないくらいずいぶんあちこちに行きました。
いいところがあると聞けば、県外にも足を運びましたし、薬もきちんと飲み続けて治るように努力してきたつもりなのですが…」
「ここの事はどうやってお知りになったのですか?」
そう尋ねる一さんに、木下さんはふうっとため息をつきながら言いました。
「やはりうつで同じ病院に通っていた方が、久しぶりに病院でお会いしたらずいぶん元気になってらして。どうしても気になってお尋ねしたら、カウンセリングを受けて回復してきたっておっしゃってこちらの事を教えてくれたんです。
元気になれるかもしれない、と思ったら居ても立ってもいられなくって。」
「そうだったんですか。もう、何年くらいうつ状態なのですか?」
「結婚してしばらくしてからですから…かれこれ20年近くになるでしょうか。もちろんその間に薬が合ったのか少し状態がよくなったり、逆に悪くなったり、という波はありましたけど。
…主人にはずいぶん迷惑をかけてきたって済まなく思ってます。私のことを責めるどころか、いつも気遣ってくれて、私にはもったいないような主人なんです。
主人のためにも、今度こそよくなりたいんです、良くなって主人を喜ばせてあげたい…。どうぞ、よろしくお願いします。」
必死に訴える木下さんを見ながら、一さんの頭の中は、すでにフル回転し始めたようでした。
「少し、小さい頃のことを聞かせてもらってもいいですか?」
そう問われて木下さんは昔のことを思い出しながら、時々上目づかいに一さんの顔を見ながら、ぽつり、ぽつりと話し始めました。
「父は近所ではちょっと知られた旧家の長男で、母とはお見合いで結婚したと聞いてます。私が物心ついた頃には祖父は亡くなっていて祖母と両親、兄と私の5人暮らしでした。
父は会社に勤めてましたから日中は外で、もともと農家で土地は売るほどありましたから母と祖母が、家のものが食べる程度の家庭菜園をしながら家のことを切り盛りしていました。」
「お父さんとお母さん、それからお祖母ちゃんの仲はどんな感じでした?」
「父は長男でしたから祖母も立ててはいましたが、祖父が亡くなって以来本家を切り盛りしてきた人でしたから良く言えばかくしゃくとした、厳しい人でした。
父と祖母がもめることはありませんでしたが、一緒にいる分、母と祖母がもめることはしょっちゅうでした。…母もいいところのお嬢さん育ちで、あまり人に仕えるということはないまま嫁いできたのでしょう。
間に入った父も母と二人のときにはすまないと言ってたみたいですけど、表向きには祖母に従うように言うものですから、母も面白くはなかったでしょうね。
兄は跡取りでしたから祖母にかわいがられていましたけど、女で母似の私はどちらかというと祖母にはあまりかまわれなかったんです。
まあ、父も家のことにはあまりかまわないし、母も祖母との間で大変で、父にもあまりかまってもらったという感じはしませんけど…。」
そう言った後、ちょっと間をおいて、木下さんは言いにくそうに言ったのです。
「私なんか女だし、祖母にとっても父にとってもおまけみたいなもので居てもいなくても
どうでもいいような子どもだったんでしょう…母は可愛がってくれましたけど、私だけが味方、みたいなところもあったんでしょうね。
私も母がかわいそうっていう頭が結構小さい頃からあって、家のことの手伝いや母の肩もみとか喜んでくれそうなことを必死でしてましたから…母が喜んでほほ笑んでくれると
ほっとしたものです。」
祖母と母のいさかいを目の当たりにし、家のことには関わらない父。
顧みられているという感覚も持てず、必死に母の面倒をみることでやっと自分の存在価値を確認していた小さな女の子。
一さんの脳裏には、その光景がくっきりと浮かんで見えるようでした。
「木下さん、あなたは相談に来ている僕にさえ気遣って喜ばせてあげなくてはならないって思って話しているのが伝わってきますよ。」
「えっ?!どうしてそんなことが分かるんですか?」
「あなたの視線とか、仕草で気遣って喜ばせようとしてるのは分かりましたよ。
あなたの中の小さな女の子が、そうしないと安心できないお家の中で、誰からも保護され愛されることがないと思い込んでしまっているのですよ。
『人を喜ばせて、人の役にやっている限り私は存在していい』と。
あなたはそれに従って、人のためにばかり気を使って動き回っていたのではないですか。
今の状態はそう思い込んでいる小さい女の子が自分の思い込みを守らないといらない子だと言われてしまう、と必死に大人のあなたを守ろうとしているようなものなんです。
あなたは、今の自分がうつになって動けなくなっていると思っているのでしょうけど。」
そう言いながら一さんは椅子を持ってくると言いました。
「この椅子に小さな頃のあなたが座っています。この子に言い聞いてごらん、『もう、人を喜ばせなくてもいいよ。自分を大事にしよう。』って。」
木下さんは、じっと椅子を見つめると小さな女の子に話しかけるように言いました。
「もう、いいのよ。そんなに人を喜ばせなくても…。」
「女の子はどんな顔をしてますか?」一さんは尋ねました。
「困っているみたいです…」
一さんは、木下さんに女の子の椅子に座るように促すと、座った木下さんに向かって言いました。
「真佐子ちゃん、このお姉ちゃんがもう人を喜ばせないでもあなたに生きていていいよって言っているけど受け入れてあげる?」
木下さんはうなづくことができずにいました。
「あなたは自分の存在を『人の役に立っている』という条件付きでしか認めてあげられないでしょう?今まで小さな真佐子ちゃんに役に立ってないあなたには生きている価値はないって言い聞かせてきたのだから急にそうしなくていいと言われても、その子は納得してくれないよ。さあ、どう説得しようか?」
真佐子さんが十分今までのことを振り返れるようにしばらく待った後、一さんは噛んで含めるように、ゆっくりと言いました。
「もう、許してあげなさい。おばあちゃんも、助けてくれなかったお父さんも、そして小さかったあなたに面倒を見させてしまったお母さんも…
そして小さな真佐子ちゃんにも、もう終わりにしようって教えてあげてごらん。」
小さな自分の椅子から今の自分の椅子に移動した木下さんは一生懸命小さな女の子に話しかけるのですが、悲しそうに言いました。
「こんなにつらい目に会ってきたのに、許すのなんかいやだと思っているみたいなんです。」
「そうですか…分かりました。木下さん、今の椅子にかけてごらん。」
一さんはそういうと座りなおした木下さんの前に膝をつき、座っている木下さんに目線を合わせると優しく言いました。
「真佐子ちゃんに教えてあげて。あなたはつらい決断をして私の命を守ってくれてきたけど、もうその決断で今の自分を苦しめるのはやめようと思っていることを。
許さなくっていい、大きくなった私が小さなあなたの決断で今を苦しめることをもうやめることを受け入れてほしいって、そう言い聞かせてごらん。きっとわかってくれるから。」
その言葉を聞いたとたん、木下さんの目に涙があふれてきました。
「あぁ…そうだったんですね、許すって今の自分を苦しめるのをやめるだけでいいんですね…向こうに座っている小さな自分の顔が納得したように見えます。私は本当に長い間、なんてもったいないことをしてたんでしょうね…。」
そう言いながら泣く木下さんの頭を優しくなでながら、一さんは言いました。
「辛かった過去が変わらないと幸せになれないならみんな一生不幸なままですよ。
過去は変わらないけど、その時感じた感情や決断はいくらでも変えられるんです。
誰かを喜ばせてなくても、あなたはそのままで十分生きている価値のある人ですよ。」
木下さんはただ、ただうなづきながら、静かに涙を流していました。
「人を喜ばせること」を自らに課さず自分の存在を肯定できるようになれば、うつ状態も快方に向かいだすだろう、涙がすべて洗い流してくれますように…と願ってやまない一さんでした。