「父ちゃん、イチローっていっつも同じ動作しながらバッターボックスに入るよねえ?
判で押したみたいにバットを構えてから袖を引っ張るとこまでぴったり同じ動きだし。
これってやっぱ、ゲン担ぎしてんのかなあ、どう思う?」
休みのある日、衛星放送でメジャーリーグの試合を見ていた一輝(かずき)は、一回聞いてみたかったんだー、と言いながら一(はじめ)さんに言いました。
「おっ!いいとこに気づいたな!」
一さんはちょっと嬉しそうに言うと、ソファにかけてテレビを見ていた一輝の隣に腰をおろしました。
「スポーツっていう形で運動能力を競う動物は人間だけだろう?」
突然、質問からそれた形で切り返され、拍子抜けした一輝は、それでも一生懸命考えながら答えました。
「動物っていうか、犬とか馬の競技って言っても人がさせていることだしなぁ…動物たちが競争しようって思ってるわけじゃないよねえ…?
確かにスポーツで競うのって人間だけかも…でもそれってゲン担ぎとなんか関係あんの?」
一さんは、まあまあ順に話すからさ…と、ゆっくり話し始めました。
「動物が運動能力を競わなくちゃいけない場面ってどんな時だと思う?」
質問したのは俺なのに…とブツブツ言いつつも一輝は自分の考えを思いつくままに話しだしました。
「野生動物で、運動能力を競うって言ったら、やっぱ、獲物を追っかける時かなあ?
足の速さや持久力、あとは瞬発力とか逃げる方ならフットワークでどれだけかわせるか…とか?」
「なかなかいいところついてるぞ。」
一輝をほめながら一さんは言いました。
「野生動物にとって運動能力の差は生死に直結してるんだ。
草食獣の足が遅ければ肉食獣の餌にされてしまうし、肉食獣でも身体能力が劣っていれば獲物が取れずに飢え死にしなけりゃならない。
動物にとって運動能力を競わなくてはいけない場面はまさに『危険』と認識されるんだ。
人間は動物にない新しい脳を発達させて、運動能力を競う「スポーツ」という楽しみを
得たんだけど、新しい脳が楽しんでいる一方で(動物にもある)古い脳は、命が危険にさらされていると思っているんだ。
意識上はスポーツを楽しんでいるのに、無意識のレベルでは命の危機に酷似した状態に置かれているような感じって言えば分かりやすいかな?
だから、無意識に危険からのがれることをしてしまうのさ。」
「…?父ちゃん、もっと分かりやすく言ってよ…」
まあ待てよ、そう言いながら一さんは説明を続けました。
「トカゲって一回巣穴から出てたどった道の先で危険に出会わずに餌にありつくと、一生その道をたどり続けるんだって。この道をたどれば危険な目にあわずに餌(えさ)にありつく事ができるぞって学習するんだな。
人間だって同じだよ。一回やってうまくいったこと、危険な目にあわなかったこと、緊張せずに実力を出せた時のこと…古い脳はこの時と同じことを繰り返すと『安全だ』って感じるんだ。
スポーツに限ったことじゃないんだ。例えばいつも行く温泉の靴箱や映画館の席、お店の駐車場、学生さんなら講義を受けるときの席…無意識のうちに同じところを選んでないかい?同じところ、繰り返しっていうのがどれだけ人を安心させるかこれだけでもよく分かるだろう?
スポーツに話し戻すけど、身体で同じことを繰り返すことでスポーツをする時に古い脳が感じる危険を和らげているってことなんだ。古い脳が安心すると、新しい脳にエネルギーが回りだすから、競技がうまくできたり、状況判断がうまくできていい結果につながったりスポーツをするうえで必要な能力がうまく使えるようになるってわけだな。」
「そうか、ゲン担ぎで同じことをするって、古い脳を安心さてるってことなんだ…」
納得のいった顔をして、一輝がうなりました。
「そういうこと。スポーツをする人は何かしらマイルールとかゲン担ぎするものを持っている人多いはずだよ。
イチローはバッターボックスに入るときだけじゃなくて、毎日起きる時間や食べるもの、球場に向かう時間や練習のメニュー…いろんなところにマイルールや決まりごとがあって
判で押したようにきっちりとこなしてるってテレビの特番かなんかでやってたよ。
そうすることで無意識化の危険を排除して、集中できる精神状態を作っているからこそ
これだけの結果を残せるんだろうなぁ…
普通の人だって、試合に行く時食べるものや持っていくもの、通る道や、中には会場に入る時、どっちの足から…なんて決めている人もいるくらいゲン担ぎをしてるって聞くよ。
一輝たちの中でも、持っていくものとか食べるものとかなんかこだわりのゲン担ぎを持ってるって子、結構いるんじゃないか?」
「あるある…!!俺、試合の前の日、晩飯に唐揚げ食べていくとなんか勝てることが多いような気がして、よく前の日に唐揚げ作ってって頼むんだ、母ちゃんに。」
「唐揚げを食べていった試合で勝てた時のことが古い脳に刷り込まれてるから安心するんだな。やっぱり、お前の安心は食い物に直結してるんだなあ…」
「あ、父ちゃん、俺のこと小馬鹿にしてる?!まあ、確かに腹いっぱいだと、たいていの事には動じないけどね、俺。」
一輝らしいや…そう返しながら一さんは付け加えて言いました。
「ま、このマイルールやゲン担ぎを見つけて繰り返すことで精神状態を安定させる方法は、あくまでも『対症療法』だけどね。
本当の意味で精神的に安定を図って実力を発揮するためには、自分でも気付かないうちに脳に刻み込んでしまった偏見や思い込み、トラウマを解決するのがベストなんだ。
いくらたくさん練習をしたって、自分への肯定感や信頼ができていなければ元も子もないだろう?
その他にも信頼のおけるコーチや監督の存在も大きな支えになるな。
信頼しているコーチが『お前ならやれる』『思い切って行って来い』って言ってくれるだけで、やれるような気になるってことあるだろう?
そんな人と人とのつながりで、無意識の不安が消えていくこともあるんだ。
指導者やチームメイトとの人間関係で引っかかって実力はあるのに、いまいち伸びない選手もたくさんいるはずだよ。
プロって呼ばれる人やトップアスリートって身体的な差ってほんのわずかなんじゃないかなって父さん思うんだ。一握りのトップに入っている時点で、もともとすごい能力を持った人たちのはずだからね。
その差がどこででるかっていうとやっぱり『精神面』だと思うよ。
精神的に安定していて、周囲の人といい関係が築ける人は、持っている実力をそのまま発揮できるはずだって思うんだ。一輝はそう思ったこと、ないかい?」
「んー…確かにそうかもしんない。そういうのやっぱ、大きいと思う。うちのチームも
コーチすっごくいい人で、安心感があるんだよなあ…監督はちょっとみんなから怖がられてるけどね。監督のびしっと締めるところと、コーチのさりげないフォロー…この組み合わせが絶妙にいいんだ!」
「ははは…お前んとこはチーム全体明るいもんなぁ。あの雰囲気で試合の時、みんなの緊張ほぐれてるところはあるだろうな。恵まれてるぞ、お前たち。」
「改めて考えたことなかったけど、人間関係に気を取られないで、プレーにうち込めるってありがたいことなんだよな。自分の実力ってばっか思ってたけど、感謝しなきゃな…」
素直にそういうことの言える一輝を見ながら、なかなか、見込みがあるぞ…と思う一さんでした。