「最近ね、脳って何でもできるんじゃないかって思うことがあるんだ。」
ある日の夕食後のひと時、一(はじめ)さんはこう話し始めました。
「今までにもよく、カウンセリングを受けてから体調がよくなりましたっていう話は聞いていたんだ。実際に目の前でパーっと顔色がよくなったりすることは良くあるし、もともとあった筋腫(きんしゅ)や腫瘍(しゅよう)が小さくなったっていう話もよくあるんだよ。
心理的なものが身体にも影響を及ぼすっていう実例だよね。」
「身体にそれだけいい影響があるんだから、きっと美容にもいいはずよね。お父さん、
『きれいになるセミナー』とかしてみたらすっごく効果あるんじゃない?」
美容やおしゃれに関しては関心の高い瑠実(るみ)と仁実(ひとみ)が興味津々の様子で話に加わります。
「脳が私をきれいにするセミナーってどう?」
キッチンで夕飯の片づけをしていた早苗(さなえ)さんが心配そうに話に入ってきました。
「エステとか美容関係のサロンと間違ってくる人とかいるんじゃないかしら?そうなるとちょっと方向性が違うような気がするんだけど…美容的な効果が来た人の思っている通りでなかったらクレームとかでないかしら。大丈夫かな?」
一さんは、んー…としばらく考えて言いました。
「知り合いの人とかの口コミの紹介で何人か集まってもらって脳の話をしたり自分の解決したいことをワークするミニセミナーだったらどうかな?
きっかけは容姿のことでも、実際に受けて行くうちに内面から変わって来ると、見た感じもきっと変わってくるよ。
きれいっていうより、魅力的になるって言うのがしっくりくるかもね。
ストレスからくる肩こりとか頭痛みたいな症状も軽くなるはずだし…面白いかもね。」
それを聞いていた瑠実はすかさず「セミナーする日決まったら教えて!講義サボってでも見に行く!!」と大興奮です。話にはたくさんの事例を聞いているものの、ライブで見る機会なんて初めてなのですから無理もありません。
「分かった分かった!」
一さんは請け合いながら、意外と面白い企画かもなぁ…と頭の中でいろんな段取りを始めていました。
次の日、一さんは青木さんに昨夜の話をしてみました。
「脳を安全にするって、身体にいろんな影響を与えるだろう?心理の話を脳科学の視点からお話ししてあげて、集まってもらった人の中から希望者にワークしてあげるようなミニセミナー開いてみたら面白いと思うんだけど、どう思う?」
「カウンセリングっていうとすごく構えてしまう人って結構多いから、きっかけにはいいかもしれませんね…。受けてみて自分で変わったってかんじたところを外面的内面的両方なレポートを出してもらえる方限定で体験セミナーしてみるのも面白いかも?
気になっているけど、敷居が高くって…って言ってる友達もいるから誘ってみようかなあ。
今通ってる方で、落ち着いてきている人にも声かけてみてお友達や知り合いの方連れてきてもらいましょう!なんか、楽しみですねえ!」
青木さんはすっかり乗り気で参加者集めやチラシ作りに没頭し始めました。
「青木さんが一番乗り気だねえ…ま、ぼちぼちでいいから…」
圧倒された一さんが言うそばから、「まかせといてください!集まったあとのことは先生にお任せですから!」とやや丸投げ発言の弟子にくすくす笑いながら「…相変わらず師匠をこき使うねえ…はいはい、了解しました。」と返事をしながらコーヒーを飲む一さんでした。
数週間後、青木さんのお友達やカウンセリング中のクライエントから紹介された人を中心に8名ほどの女性が集まりました。
きれいになれるよ、と誘われて興味津々で参加した人もいれば、カウンセラーになりたくて実際にセラピーをする現場を見てみたいと参加した人、中にはちゃっかり講義をサボった瑠実も混ざっていました。
集まった女性たちを前に、一さんはいいました。
「今日は集まっていただいてありがとうございました。今日集まっていただいた方は
『きれいになりたい』っていう気持ちを大事にして自分をここまで連れて来られました。
きっと脳のことを勉強してワークで自分のことを解決していくと自分でも思わなかったような変化が起きてきてびっくりすると思いますよ。もちろん、容姿にも変化か起こるはずです。楽しみにしていてくださいね。」
そういうと、脳と身体のつながりについて説明を始めました。
「脳の中の一番古い部分、トカゲ脳と言われる部分と脳幹は生きていくために大切な機能がたくさん詰まってます。この古い脳は客観性を持った新しい脳が育つまでいろんな判断をしている部分ですが、判断の基準が主観的なので間違った思い込みや偏見を事実と思って刷り込んでしまうことがあるんです。これが『トラウマ』と呼ばれるものです。
生きるために大切な機能とトラウマは同じ部分に入っているので、トラウマに悩まされている時には生きるための機能に脳が十分なエネルギーを回せなくなってしまうんです。
だからストレス状態になると身体もメンテナンスが滞ってしまって体調不良が起こってくるんですよ。
検査では異常がないのに痛みや倦怠感しびれやむくみ肩こりや筋肉痛…本当にいろんな症状として現れてくるんです。
トラウマを解決したとたん顔色がよくなる人や肩こりが楽になった人って案外多いんですよ。
がんの末期の人が、効果的な自我を使う練習をして幸せや安心を感じられるようになって腫瘍が小さくなったり、お医者さんから言われた余命よりうんと長生きしたりということも、脳と身体のつながりを感じる事例ですよね。
血液に循環やリンパの流れがよくなって呼吸が整って酸素が身体にたくさんとりこめるとしたら、美容に悪いはずがありませんもんね。」
集まった女性たちはとても興味深そうに話に聞き入っていました。もちろん瑠実も目をキラキラさせながら楽しそうに聞いていました。
休憩をはさんでワークの時間になった時、一さんは言いました。
「ここでは一切強制はしません。自分の問題を解決してみたい、と思った人が思った時に手を挙げてください。
じゃ、自分の問題を解決してみたい人いますか?」
一瞬、誰か先に手を挙げてくれないかな…というような空気が流れましたが、その空気を破るように一人の手が挙がりました。
「松本(まつもと)さん、ですね。何を解決したいのですか?」
胸元に付けた名札を見ながら一さんが優しく問いかけました。
「私、…結婚したいんです。」
結婚したい、という契約を基にして松本さんのワークが始まりました。
「結婚できない、と松本さんが思っているのはどうしてですか?」
そう尋ねる一さんに、松本さんは考えながら答えました。
「私も人並みに結婚したら女に生まれてよかったなあって思えるのかなって思ったんです。
私、昔から自分が女なのが嫌で嫌でたまらなくって…自分でもなんでなのか分からないんですけど。
「御兄弟は何人ですか?」
「4人姉妹の末っ子で、私が生まれた時は父ががっかりしていた、と聞きました。
そのためか、よく男の子の格好をさせられてました。そんな恰好をして、男の子のような遊びをしていると父の機嫌がよかったような気がします。」
そうですか…そう相槌(あいづち)を打つと、一さんはもう一つ尋ねました。
「あなたが女であることが嫌だ、と感じることのほかに困るようなことはありますか?」
松本さんはしばらく考えていましたが、顔を上げると言いました。
「私負けん気が強いのか、いっつも職場で言い争いになってしまうんです。特に男の人には負けられないっていう気持ちがあって。こんなんじゃなければ、恋愛の一つでもできるのかなって思えるんですけど。そんなこと言いながら、恋愛する気も結婚する気も実はあまりないような気がします。そうできればいいなって思う自分と恋愛も結婚のしなくていいって思う自分がいるんです。自分でも分かりません…」
「そうだったんですね。」そう言うと一さんはホワイトボードに何かを書き出しました。
そして松本さんに向き直るとこう言いました。
「松本さん、生年月日を教えてください。」
「え?あ‥8月の23日ですけど…」
松本さんが答えるのを聞き、一さんは続けました。
「この絵は受精を表してます。これはあなたのお誕生日の10か月ほど前、あなたのお母さんのおなかの中で起こった現象ですが、これはあなたの責任ですか?」
「いいえ、違います。」
「あなたはお母さんのおなかの中で細胞分裂を繰り返し順調に成長しました。しばらくすると女の子であることが分かりました。これはあなたの責任ですか?」
「いいえ、違います…」
「周りが男の子を期待する中、あなたは女の子で生まれてきました。これはあなたの責任ですか?」
「…いっ…いいえっ…わたしの責任じゃ…ないです!」
目を潤ませながら、松本さんは答えました。
一さんは優しく言いました。
「そうですよ、みんなあなたの責任じゃないんです。あなたが女の子で生まれてきたのはあなたの責任ではないのですよ。」
松本さんの目に、見る見る間に涙が盛り上がりあふれ出しました。そのまましばらく、
彼女は子どもに戻ったかのように人目もはばからず泣きました。
32年もの間、女性であることを受け入れられず、苦しんできた日々を思いやって、
泣きました。
涙が落ち着く頃、一さんは彼女の前にお人形を座らせた椅子を持ってきました。
そしてこう言いました。
「この子は小さい頃のあなただよ。自分が女の子であることを受け入れられず、自分を責め続けてる。大人になったあなたからこの子に教えてあげて。女の子に生まれてきたのはあなたのせいじゃないんだよって。」
眼は泣き腫らしていましたが、すっきりとした顔をした松本さんは、お人形に向って言いました。
「女の子で生まれてきたのは、あなたの責任じゃないんだよ。もう、無理して男の子みたいにしたり、男の子と争ったりしなくてもいいんだよ。女の子で、いいんだよ…。」
そう言ってお人形を抱きしめた松本さんに、一さんは言いました。
「もう、女の子が嫌だって思わなくなったでしょう?よかったね。」
周りで見守っていた参加者の人たちも、涙ぐんでいました。
静かな声で松本さんが言いました。
「私が女であることを、父が受け入れてくれないとだめなんだって思ってました。父ではなくって受け入れていなかったのは私だったんですね…一番受け入れてあげないといけない私が、否定していたんですね…」
「これから、女の子の人生は楽しいですよ。いっぱいおしゃれして、素敵な男性と楽しく恋をして、うんと幸せになっていいんですよ。」
松本さんは満面の笑みを浮かべると言いました。
「はい、きれいになって女の子の人生を楽しみます!」
皆は一斉に拍手しました。
その後、いくつかのワークが終わり、皆は名残惜しそうに解散しました。心地いい疲れを感じながら、瑠実と二人で家に向かう途中、不意に瑠実が言いました。
「話には聞いてたけど、聞くのと見るのじゃ大違いだね…目の前でワーク見て、すっごく感動しちゃった。今までもすごいって思ってたけど、私お父さんのことますます尊敬しちゃったよ…」
手放しの賛辞(さんじ)に照れながら、一さんはひと言「ありがと」といい瑠実の頭をくしゃっと
かき回しました。