ある日曜日の朝、不意に仁実(ひとみ)が一(はじめ)さんに聞きました。
「ねえ、二朗ってなんで二朗って名前になったの?」
「どうしたんだ、急に。」
そう問いかける一さんに一輝(かずき)も同じ疑問を持っていたようで、異口同音に言いました。
「犬らしい名前って他にもたくさんあるのに、何でかなあって俺も思ってたんだ。」
不思議そうな顔で自分を見つめる二対の瞳に、何か懐かしいことを思い出したような、ちょっと遠い目をして一さんは話しだしました。
「二朗は二代目なんだ。実は昔、初代の二朗がいたのさ。」
わんぱくガキ大将だった一少年(はじめしょうねん)。その一方で、現在の仕事のベースになったともいえる面倒見の良さ、人の感情を敏感に感じ取る繊細さを持った少年でした。
その一少年が捨て犬や捨て猫を拾ってくるのは日常茶飯事。
反対に、また捨てるのは忍びないし、かといってすべてを養うのは大変…と、一少年が学校で留守の間、里親を探してきた母親によその家に持っていかれることも日常茶飯事…のいたちごっこの日々でした。
そんな中でどこに連れて行かれても必ず戻ってきてしまう一匹の犬がいました。
根負けした母親がとうとう飼うことを許してくれた犬。
名前を二朗と言いました。
二朗を拾ったのは、近所の子どもたちがいつも集まって遊ぶ神社でした。
数人の悪ガキに囲まれて、大声で追いまわされ尻尾を巻き神社の社の床下に逃げ込んでいた小さな雑種の子犬を、悪ガキを威嚇し助けてあげた一少年。
それが彼らの出会いでした。
大声で驚かされたトラウマか、雷が大の苦手に子犬に「俺が一(はじめ)だから…二…そうだ!二朗(じろう)だ!お前の名前は今日から二朗だぞ!」となんとも単純な理由で名前をつけてあげた一少年。
まだまだ、トラウマなんて言葉も知る由もありませんでした。
助けてもらった恩を感じてか、生来の賢さか、二朗はとても一少年に懐き、まるで言っている言葉が理解できるかのような、一少年にとってかけがえのない存在になって行きました。
生まれつきとても感覚の鋭い一少年には、早いうちから大人たちの本音と建前、表と裏が嫌でも分かってしまい、とても苦しい思いをした時期がありました。
特に多感な思春期の頃、その苦しみはピークに達していました。
(大人なんか信じるもんか。平気でうそをついて…俺のためだ、なんて真っ赤なウソ。自分のことしか考えてない…)
言っている言葉の裏なんか読めなければ、どんなに楽か…
そんな思いで家を飛び出し、暗くなるまでウロウロとする日々。
そんな中で、必ず一少年を見つけ出しその思いを共有するかのように何時間もじっとそばに座ってぴったりと身を寄せていた二朗。
時には、目の前を走っては止まり、反対方向に駆けては止まり、まるで「ねえ、元気出して!遊ぼうよ!」と言わんばかりの行動で、一少年もつい笑い出し「そうだな、遊ぼうか二朗。」と切り替えることができることもしばしばだったのです。
「…本当に人の気持ちが分かる、見返りを求めずに僕のことを思ってくれた賢い犬だったよ。」
懐かしそうに目をつぶって思い起こしながら、一さんは言いました。
「ふーん…そうだったのかぁ…」納得した顔の二人に、一さんは言いました。
「見返りを求めないで、ただ相手のためだけを思う気持ちって分かるかい?」
仁実は、んー…とうなって考え込み「何となく…分かる…かな?」と自信なさげに答え、
一輝は「何だっけ?…確か『無償の愛情』とかいうんじゃなかったっけ?」とどうにか兄の面目を保てたか?という答えを返しました。
「よく知ってたな、一輝。『無償の愛情』っていうのは人にとってとても必要なものなんだ。」
そう言って一さんは、続けました。
「心理の専門の言葉で『ストローク』っていう言葉があるんだ。簡単にいえばあなたの存在を認めていますよっていうサインさ。例えば挨拶だってそうだし、悪口みたいなネガティブなものでも相手の存在を認めているっていう意味ではストロークなんだよ。
服がかわいいとか髪が変っていうのは条件付きのストロークで、あなたがいるとホッとするとかあんたなんか嫌いっているのは存在そのものに対するものだから無条件のストロークだね。
ストロークの中でも、無条件でポジティブなものが無償の愛情に一番近いかなあ。
相手に何も求めず、ただ、ただいてくれるだけで生きていてくれるだけでうれしい…
人にとってこんなにうれしい認められ方って他にないだろう?
確かに、走るのが早いとか、テストの点が良かったから、お手伝いをしたから…って何かをしたときにほめられることだってうれしいし必要だよ。でも自分の存在だけで認めてもらえるっていうことは、自分を好きになれる(自己肯定感っていうんだけど)自分はそのままでOKなんだっていう気持ちを育ててくれるんだ。
自分のことがOKだ、好きだ、と無条件に思える人は失敗しても間違っても、自分への信頼を失わないから、何度でも立ち直れる。本当の意味で強いってことなんだ。
小さい頃にいっぱい抱っこされて頭をなでてもらってぎゅっと抱きしめてもらって大きくなった子は幸せに生きていく力を身につけてもらったようなものなんだよ。
ストロークって心の栄養、『心の糧』なんだ。足りないと幸せに手が届きにくくなってしまうんだよ。
父さんは人の言葉の裏まで読み取ってしまうような感覚の鋭い子どもだったし(そのお陰で今の仕事ができるんだけどね)家の中でケンカとかいさかいがよく起こってたからストロークが足りないこともあったと思う。
二朗はそんな子どもだった父さんに無償の愛情をくれた、そんな親友のような犬だったんだよ。」
「そっか…親友の名前を二朗はもらったんだね。」感慨深(かんがいぶか)げに仁実が言います。
「ま、二代目二朗はちょっと甘えん坊で愛情注がれてる方だけどね。」一さんが苦笑しながら言います。
「でも、なんか妙に訳知り顔で、そばにじっとしてる時ってあるよなあ…。」
スランプの時などによく、部屋のソファで二朗を抱えてうずくまってる一輝が言います。
「二朗って俺の気持ち分かってるんだなって思う時あるよ。」
そんな一輝の言葉を聞いて、二代目二朗が息子にとってかけがえのない存在になりつつあるような気がして、一さんはうれしく思いました。
「犬が好きな人は多かれ少なかれ、きっとみんな同じような気持ち持ってるんだろうね。
全く、犬って不思議な生き物だよ。有史以来、人の友達だったっていうのも、こんな思いを人に与えてくれるからかもしれないね。」