始まったばかりの頃は、とてつもなく長い長い休みのように感じていた夏休みも、
終わってしまえば一瞬だったような…
八月の終わりと変わらない残暑が続く中、やはり八月とは何かが違う空気が感じられる、夏休みの終わった今日この頃…
妙に静かになった朝の鈴木家。一瞬前までは学校に出かける子どもたちがバタバタしていたとは思えないような静けさの中で、一(はじめ)さんはゆっくりとコーヒーを飲んでいました。
「何か、家の中が静かっていうだけで2・3度温度が違うみたいだねぇ…」
のんきなことを言ってコーヒーを楽しんでいる一さんを面白そうに眺めつつ、早苗(さなえ)さんは朝食の後片付けをしながら言いました。
「あなたそんなにのんきなこと言ってて大丈夫?そろそろ出かけないと朝一番のお客さん間に合わないわよ?」
あまりの静かさにまるで休日のような気分になっていた一さんは時計を見上げると、
「しまった!!」とばかりに飛び上がると支度を済ませ、大急ぎで飛び出すように出かけて行きました。
その様子を見ていた早苗さん、オープンキッチンから見える二朗に向かって言いました。
「みーんな行っちゃって、さみしくなったね二朗?後で散歩にでも行こうか?それとも夕方お父ちゃんと行く?」
大慌てでギリギリに事務所にたどり着いた一さんを待っていたのは、この時期らしいといえば、時期らしい相談でした。
青木さんがとった電話の内容はこんなものでした。
「初めてお電話するのですが…木下(きのした)と言います。うちの娘、中学2年の女の子なんですけど、一学期の中ごろから学校に行きたがらなくなって休み勝ちになってまして…なだめすかしてどうにか夏休みまでは登校させたのですが、夏休みが終わってからは一回も学校に行けないんです。いじめられたって訳でもなさそうなんですが、とにかく行かないの一点張りで…
本当に腹痛や頭痛がすることもあるみたいで、もうどうしたらいいものか、こっちが頭が痛いくらいです。」
ちょうど予約に空きがあった明日の午後、木下さんのお母さんはやってくることになったのです。
予約の当日、やってきたお母さんをカウンセリング室に案内して事務所に戻ってきた青木さんは一さんに言いました。
「何か、すごく悩んでらっしゃったんでしょうねぇ…ご自分のことはかまう暇がない感じというか、何というか…。」
ちょっと口ごもりながら、話す青木さんの様子を見て、一さんは心得たとばかりににこっと笑うと「うん、分かった。」と言ってカウンセリング室に向かいました。
カウンセリング室に入り、木下さんを見て一さんは(なるほど…)と思いました。
清潔に、小ざっぱりとはしているものの、ずいぶんパーマが取れかかった髪は飾りっ気のないゴムで後ろに一つに束ねられ白いものもちらほらしています。
スエットのような上下の服、化粧っ気もなく肌の手入れもずいぶんしていないのでは?と思わせるようなかさついた肌…
子どものことで心を痛め、自分のことは二の次だったのだろう…眉間に寄ったしわのせいで老けて見えるが、実際は30代後半くらいだろうか、そんなことを考えながら、
表にはそんな思いは出さないように、一さんは落ち着いた様子で声をかけました。
「はじめまして、鈴木といいます。お嬢さんのこと、ご心配ですね。」
はい、と力なくほほ笑むと木下さんは話し始めました。
「娘の理恵(りえ)は、もともと大人しい子で小さい頃からあまり手を焼かせることがない子だったんです。成績もまあまあでお友達の多いほうではなかったかもしれませんが、いじめられたとか特別大きな事件があったわけでもなくて、学校に行けなくなってきたのも徐々にという感じなんです。
2年に上がって5月の連休明けぐらいから学校に行きたくないという日が増えてきて、時には頭痛や腹痛を訴えていかない日もありました。仮病のこともありましたが、どうやら本当に具合が悪くなっているようだという日もかなりあったんです。
何とかなだめすかして遅れたり早退しながらですが、1学期は過ごすことができたんですが、
夏休み明けは本当に体の具合が悪いような感じで、朝、布団から出られないんです。
お医者さんに行っても悪いところは特になさそうだといわれるばかりだし…。
学校に行けなかった日は、一日のほとんどを部屋に引きこもったまま過ごすようになってしまって…
また、学校に行けるようになるでしょうか?」
お母さんの心配を一通り聞いたところで、一さんは話し始めました。
「木下さん、今の状態では学校に行くのは厳しいですよ。小さい頃からいい子でいることにエネルギーを使って、今はエネルギー不足のような状態なんですから。
今の状態は『このままではきちんと大人になれないよ』っていう理恵ちゃんからのメッセージだと思って下さい。
ここでキチンと解決しないまま無理に学校に行かせることは理恵ちゃんの人生に何のプラスにもなりません。それどころかマイナスになりかねないのですよ。
それを心に留めておいてくださいね。何でこうなって行ったのかキチンとケアできれば、自然と学校にも行けるようになれますからね。あせらないでゆっくりいきましょう。」
連れてくればすぐに学校に行けるようにしてもらえるのではないか、そんな思いがあったのでしょう、一瞬、少し落胆したような表情をした木下さんでしたが、
「また、学校に行けるようになるんですよね…」と自分を納得させるように呟(つぶや)くと、顔を上げて言いました。
「お任せします。よろしくお願いします。」
そんなお母さんの様子を見て、一さんはうなづきながら言ったのです。
「さあ、お母さんも変わらなくてはいけませんよ。あなたがお家の中でずっとそんな顔をしていると、 理恵ちゃんは自分のせいでお母さんを苦しめていると思ってますます自分を追い詰めてしまいますからね。
まずは、そうですね…家の中でもキチンとお化粧して明るい色の服を着てください。
いいですね?
理恵ちゃんのためだと思ってがんばっておしゃれしてください。」
木下さんは面食らったような顔をしていましたが、「はい。」と返事をするとその日は帰って行ったのです。
数日後、木下さんはお化粧をしてカウンセリングに現れました。
「わあ、お化粧一つでずいぶん明るくなりますね!似あってますよ。約束を守っていただいてありがとうございます。」
そう言ってほめる一さんに、木下さんはちょっとはにかんだような笑顔を浮かべて言いました。
「鈴木さんに言われて、自分がどれだけ自分のことを放ったらかしにしていたかやっと気がつきました。理恵のことが気にかかっていたとはいえ、あの格好で外出するなんてあんまりでしたよねぇ…あれからできるだけお化粧をするようにして、髪も久しぶりに美容院へ行ってきたんですよ。」
そう話す木下さんに、一さんは言いました。
「理恵ちゃんにもきっと変化が出てきますから、あせらずに続けてみてくださいね。」
「はい、実はもう少し変化が出てきていて『この服いいね』とか『髪型似合ってる』っていってくれたりするんですよ。」
口数も会話もほとんどなくなっていたのが気になっていたのでしょう、理恵ちゃんが話してくれるようになってきていることをお母さんは嬉しそうに報告してくれました。
回を重ねるごとに、木下さんは明るくなって行きました。周囲の人からも「きれいになった」と言われることが多くなったと、嬉しそうに話し、「理恵も私が元気でいることで安心できるらしくて、少しづつ自分の気持ちを話してくれるようになってきました。」と話してくれたのです。
「私は理恵のことが心配と言いながら自分がショックなことで頭がいっぱいのなっていたのかもしれません。理恵の気持ちを聞いたり、ゆっくり寄り添うことが自分のことをきちんとすることで逆にできるようになったような気がするんです。
理恵は小さい頃からいい子で手がかからなかったのではなく、あの子は逆に私の面倒を見てくれていたのかもしれませんね。それがもう限界に来ていたのでしょうね、まだ、面倒を見てもらいたい子どもなんだから当たり前ですよね。甘えたくてもそうできずに、不登校や引きこもりになって行ったのかもしれません…かわいそうなことをしました。」
一さんはにっこり笑うといいました。
「もう、理恵ちゃんは大丈夫ですよ。お母さんにしっかり甘えて守ってもらううちに、ゆっくりと手が離れて行って、学校にも行けるようになるはずです。
お母さんも、皆さんからほめられるようになって一石二鳥ですね?」
「それが不思議でたまらないんです。確かに悩んでいた時より身なりに気を使うようにはなったんですが…肌がきれいになったとか、若くなったっていって下さる方までいて…
気持ちが前向きになるって見た目にまで影響するんでしょうか?」
不思議そうにたずねる木下さんに、一さんは説明してあげました。
「精神的にストレスを抱えていると、本来身体を整えるためのエネルギーや命をつないでいくためのエネルギーまでストレスに対処するために使ってしまうようになるんですよ。
肌や髪につやがなくなったり、肌荒れや吹き出物も出てきたりしやすくなるんです。
免疫力が落ちてしまうと風邪をひきやすくなるし、ひどくなるとがん細胞の増殖を抑えられなってしまうことさえあると言われているんですよ。
呼吸とか循環、ホルモンバランスも影響を受けますから、体調が悪くなるはずですよね。
脳って病気を作り出したり逆に病気を治したり、人をきれいにすることもできるって僕は思っているんですよ。」
カウンセリングを終え、家に帰った一さんは、朝の静けさから一転した、夕飯前のあわただしさ真っただ中の自宅の雰囲気に、こっそり早苗さんに愚痴をこぼしていました。
「朝、子どもたちが出て行ったあとはあんなに静かだったのに…元の木阿弥(もくあみ)って感じだねぇ…。」
早苗さんは夕飯を作る手を休め、そんな一さんを振り返りながら言いました。
「お腹がすいた一輝(かずき)や学校の出来事を話したくてうずうずしてる仁実(ひとみ)やあなたの仕事の話を聞きたくて手ぐすね引いてる瑠実(るみ)をこの時間帯に静かにさせるなんてことムリよ。
早々に頭を切り替えて、夕方の時間に静けさを求めるより、静かな所へ二朗とお散歩する方が賢明かもよ?
ま、見方を変えればストレスじゃなくって、子どもたちが元気な証拠って思えなくもないかもね。あなたの脳次第ってことかな?」
一本取られました…とばかりに、この喧噪(けんそう)の中、楽しげに料理を続けることができる早苗さんを、ある意味尊敬のまなざしで見ながら、早々に二朗と散歩に出かける一さんでした。