私はなんてダメな子なんだろう…私さえもっといい子になれば、もっとがんばれば、お父さんもお母さんも仲良くしてくれるはずなのに…
そうしたらきっとお父さんもお酒を飲まないようになるんだ…
まだ…足りない。
でも、私はどうすればいいの?
「はじめまして、柴田(しばた)と申します。実は娘のことでご相談があって…。
小さい頃から、とてもがんばり屋でいい子だったんですけど…中学2年くらいからだんだん様子がおかしくなってしまって…今年18になるんですけど、ほとんど外に出ることもできなくて引きこもっている状態なんです。自宅まで来ていただくことはできませんか?」
母親からの電話で、自宅まで出向くことになった一(はじめ)さん。
予約の空きを見ながら、一さんは日時の確認を電話口でしていました。
「3日後になりますけどよろしいですか?じゃあ、10時に伺うということで…。ご住所と何か目印になるようなものがあったら教えてもらえませんか?」
まだ、スクールカウンセラーが一般的でなく、不登校や引きこもりといった症状の子どもたちがなかなかカウンセリングを受けられる環境が整っていなかった頃でした。
事務所とは言っても、自宅の一室をカウンセリング室に充てた事務所で電話は自宅の電話、事務やお茶の支度は奥さんの早苗(さなえ)さんが手伝いながら、2人でカウンセリング事務所を始めたばかりの事でした。
「あなた、ごめんなさいね。仁実(ひとみ)がちょっとぐずっちゃてて…。少し熱があるみたいなの。電話、どなたからでした?」
「うん、こっちは大丈夫。明後日、直接自宅に行ってみることになったんだ。中2だから14歳くらいから、不登校気味になって今は18歳なんだけど全く家から出られないらしいんだ。」
「そうなの。お役にたてるといいわね。」
「うん、最近は死にたいって言ってるらしいんだ。何とか救ってあげないとね。」
約束の時間に一さんが訪ねると、母親が玄関先に待っていて娘の部屋まで案内してくれました。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋には、痩せて真っ青な顔をした女の子がポツンと座っていました。
母親が「お茶でも…」と言って退室すると、一さんは女の子に声をかけました。
「こんにちは。お母さんから僕が来ること、聞いてたよね。」
リストカットの痕が痛々しい腕で自分の体を抱きしめたままうつ向いている女の子の隣に座ると、一さんはこう言いました。
「あなたが辛いのは、こんなつらい状況の中でも生き続けなきゃいけないっていうことなのでしょう?」
女の子がはじかれたように顔をあげました。
目があった一さんはにっこり笑いかけると言いました。
「これから先、嫌なことがあっても、お家の中でお父さんとお母さんがケンカをしても、何日だったら自ら命を絶たないでいられる?何日だったら自分と約束できる?」
不思議そうな表情で見ている女の子に一さんはこう付け加えました。
「自ら命を絶たないっていうのは、手首を切らないとか、飛び降りたりしないって言うだけじゃないんだよ。暗い夜道を一人で歩くとか、あなたは未成年だからしないだろうけどお酒を飲んで車に乗るとか、けがや死ぬかもしれないことをすることも含まれるんだよ。」
女の子は小さな声でぽつりと言いました。
「…3日。」
「分かった、3日だね。じゃあそれまで、死ぬってことを考えないでよくなったよね。」
そう言った瞬間でした。
パー…っと女の子の顔がピンク色に染まっていきました。
よっぽどきつかったのでしょう。死ぬことを3日間考えないと思っただけで、真っ青だった顔色がすっかり良くなったのです。
それを見た一さんはほっとしました。
『死なない契約』が成立したのです。
3日後に訪ねる約束をして、一さんは初回の訪問を終わりにしました。
今度は本物の感情を見つけて女の子を救ってあげよう、そう思いながら一さんは帰途につきました。
3日後、再び女の子を訪ねた一さんは、まずお礼を言いました。
「約束を守って、死なないでいてくれてありがとう!とてもうれしいよ。」
女の子ははにかんだように、ニコッと笑顔をのぞかせました。
「じゃあ今日は、あなたの本当の感情を見つけてみようか。感情をきれいに使っていると、後に残らなくって楽に生きていけるようになるんだよ。やってみるかい?」
女の子はこっくりうなづきました。
「じゃあ早速始めてみようか。まず、椅子を3つ持ってきてくれるかい?」
女の子は言われたように、キッチンから椅子を三脚持ってくると一さんの前に置きました。
「いいかい、これは感情の椅子だよ。あなたから見て右の椅子が悲しい、左が怖い、真ん中が腹が立つ(怒り)だよ。一つづつ座ってみてどの感情がしっくりくるか見つけてごらん。」
女の子は「私は悲しい。私は悲しい。」「私は腹が立つ。私は腹が立つ。」「私は怖い。私は怖い。」と呟きながら、椅子に座って自分の感情を見つけて行きました。
「全然関係がないって思う椅子を外してごらん。」
一さんが声をかけると、女の子はしばらく考えて『悲しい』の椅子を横によけました。
そして再び、『腹が立つ』の椅子と『怖い』の椅子を行ったり来たりしていたのですが、
もう一度『怖い』の椅子に座ると、一さんを見上げて言いました。
「ここがしっくりするような気がします…」
一さんは否定はせずに尋ねました。
「この先、ずっとその椅子に座っていて、死にたいっていう気持ちはなくなるの?」
彼女は黙って考えていましたが、顔をあげると言いました。
「…なくなりません。」
「そうだね、なくならないってことはそれは間違った感情を使っているってことだよ。腹が立つって言ってみてごらん。」
一さんは近くにあったクッションや座布団をかき集めると彼女に持たせ、言いました。
「ほら、怒ってごらん。たたいても投げてでもいいから!!」
目の前でわざとバンっとクッションを叩いてみせると、女の子の口から少しづつ声が出始めたのです。
「…かっ…バカ…バカ…バカあぁっ…!!!」
あとはもう、声にならない叫びでした。クッションを叩き、座布団を投げつけ、泣きながら怒っていましたが、その涙もある時点からぴたりと止まり、真剣に怒り続けました。
どのくらいたったでしょう、女の子は肩で息をしていましたが、突然クスッと笑うと
すっきりとした顔をして言いました。
「あーっ!すっきりしたっ!」
一さんもつられてニコッと笑うと、その後は二人顔を見合わせて大爆笑でした。
涙が出るくらい笑いあったあと、一さんは言いました。
「あなたは、お酒を飲んでは暴れるお父さんとそのたびに夫婦げんかになるお母さんを見て育って自分がもっといい子だったら…とまるで自分が悪いかのように思いこんでいってしまったんだ。子どもはみんなそうなんだ。自分が悪いんだ、自分さえいい子ならみんな仲良く幸せになってくれるはずだって思い込んでしまうんだ。
そしてがんばってがんばっていい子にして『あなたはいい子だね』とほめられるとますますがんばって…でも、ちっとも変ってくれない大人たちを見てだんだん絶望して自分の殻に閉じこもってしまったんだよ。辛かったよね。
でも、感情の使い方が間違っていた。怒りを使うことで自分を守らなきゃいけなかったんだ。怒りを出してみてどうだった?
「自分がこんない怒れるなんてびっくりしました。私の中にこんなに怒りがあったなんて。
でも、実際に怒りだしたら涙なんか出てこないし、怖いとか死にたいって思っていた気持がだんだん消えていって…本物の感情を使うと本当にスーッと消えていくんですね…。」
興奮もあってか、ほほを紅潮させたまま女の子は言いました。
「良かった…。」一さんはしみじみと思いました。
それから一週間、10日、一ヶ月…間を少しづつ伸ばしながら数回のセッションを重ねたある日の訪問の時でした。
玄関でチャイムを鳴らした一さんを迎えてくれたのはお母さんではなく女の子自身でした。
ちょっと明るめの服を着て、にっこりとほほ笑んで迎えてくれた彼女は、一緒にお茶を飲みながら断言しました。
「私もう、自分から命を断とうって思わないで過ごせそうです。」
この子は、もう死ぬことはないだろう…女の子の目を見て一さんもそう思っていました。
なんで、あの子のこと思い出したのかな…?
カウンセリン事務所を立ち上げたばかりの頃、まだまだ経験も少なく技術も未熟で…、
でも今と変わらず、関わった人を誰も死なせたくないという気持ちは強く持っていたあの頃…。
「青木さん、自殺を考えている人やその周りにいる人たちが何とか自殺を踏みとどまったり、身近な人を助けてあげれるようなビデオ作ってホームページで見れるようにできたらいいなって思うんだけど、どう?」
月末の伝票処理に追われていた青木さんは、がばっと顔をあげると、開口一番こう言いました。
「やりましょう!!私こう見えてもパソコンやネット、ちょっと強いんですよ!?
ホームビデオもあるし、ここは一発、手作りでやっちゃいましょう!!」
「青木さんってホント、ノリがいいっていうか、前向きって言うか…君が言うと本当にできちゃいそうだから不思議だねぇ。」
青木さんが機械に強いことを初めて知った一さんは、思った以上の反応に驚きながらも言いました。
「一人でも、自殺を思いとどまってくれたらこんなに幸せなこと、ないよね。」
師匠と弟子は顔を見合わせると、にっこり笑いました。