「学校に行ってないとか、勉強してないっていうのはどうでもいい事だから。」
一(はじめ)さんは目の前に座ってニコニコとしている少年にはっきりと言いました。
それを聞いたとたん、伊藤(いとう)くんははじかれたように顔をあげました。その顔からはさっきまでのニコニコした笑顔は消えていました。
まったく想定外のことを聞かされた…そんな表情で、二の句も継げずにいる彼に、一さんは優しく言ったのです。
「それよりも、どうしたらもっと気持ちよく明るく生きていけるか、そっちが大切だよ。」
伊藤君は高校2年の後半ごろから、頻繁(ひんぱん)に腹痛や不眠といった症状に悩まされるようになり、それと同時に学校へ行けなくなっていました。
学校に行けなくなる前は、小さい頃からあまり親の手を煩(わずら)わせない子どもで、親が言うように勉強し、実際にとても成績のいい子だったのです。
祖父も父も進学校から国公立大を経て公務員職に付いていて、伊藤君も当然のようにその進路を選ぶように言われ続けてきました。
彼は周囲の期待の沿うように勉強し、幸か不幸かそれに応えられる成績を収め続ける学力もあったため、周囲はますます彼に期待をかけるようになって行きました。
伊藤君は偏差値の高い進学校に行き、公務員になることがまるで自分の意志であるかのように錯覚し、がんばり続けました。
でも、とうとうそれが続けられない日がやってきたのです。
伊藤君は体調不良と不眠で動けなくなり、学校に行けなくなってしまいました。
周囲の大人たちは「あんなにできのいい子が…」と驚き、どうにかして学校に行けるようにとあらゆる手を尽くしました。
病院をはじめ、スクールカウンセラーとの面談、各種の相談窓口…、いいと聞いて何人ものカウンセラーを尋ねもしました。しかし一向に伊藤君の不登校は改善しないのです。
学校にいる時間を短くしたり、登校時間を遅くしたり、保健室に登校することもしばしばでした。
そんな状態がずるずると続き、卒業が間近になった頃でした。
お父さんが知り合いの人に聞き、一さんの事務所に電話をかけてきたのです。
「息子がもう1年半ほど不登校の状態で…あちこちに連れて行っては見るのですが、一向に状態が変わらんのです。一度連れてきてみたいのですが。」
そういった経過で伊藤君はお父さんと一緒に一さんのもとを訪ねてきたのでした。
お父さんに連れられてやってきた伊藤君は不登校というイメージがまったくわかないようなさわやかな笑顔の少年でした。
「こんにちは、伊藤馨(かおる)です。」
「こんにちは、鈴木一です。かおる君だね、よろしく。」
一さんは伊藤君をソファに座るように促すとこう言いました。
「学校に行けないんだってね。」
一瞬、伊藤君の表情が、あきらめたような「またか…」とでも言いたげな表情になったのを一さんは見逃しませんでした。
すぐに元の笑顔の戻り、伊藤君は言いました。
「そうですけど。」
どうしたら学校に行けるのか、学校で何かあったのか…そんな質問や説得がまた繰り返されるとばかり思い、伊藤君が小さなため息をついたその時でした。
「学校に行ってないとか、勉強してないっていうのはどうでもいい事だから。」
一さんは目の前に座ってニコニコとしている伊藤君にはっきりと言ったのです。
見事に予測を外された伊藤君の顔から笑顔が消えました。
この人は一体何を言っているんだろう?何を考えているんだろう?そんな窺(うかが)うような表情の伊藤君に一さんはもう一度口を開いたのです。
「それよりも、どうしたらもっと気持ちよく明るく生きていけるか、そっちが大切だよ。」
「もう、あの時はひえーって感じでしたよ。ホント、目からうろこ。それも何枚も!」
あれから数回のカウンセリングを重ね、心から笑えるようになった伊藤君は、そろそろいいですよね、と前置きしてこう言いました。
「今だから白状しちゃいますけど、鈴木さんの所に連れてこられる時もまたかって感じだったんです。何か所も病院やらカウンセリングやら行かされたし、いい加減うんざりで…
でも、いかないって言って親ともめるのも面倒だし、行くだけ行って良くならなかった親もあきらめるだろうって、そう思っていたんです。」
「そうだろうと思っていたよ。伊藤君、ニコニコしていたけど信用してないぞって目をしていたからね。
あの頃の笑顔は人を傷つけず、自分を守るための精一杯のヨロイだったんだよ。
君は、小さな頃から皆の期待に応えることを望まれていたからね。
君は優しいから、そうしなくちゃいけないって自分を追いつめてしまってエネルギー不足の状態になって体調を壊して学校へ行けなくなってしまったんだ。」
腑(ふ)に落ちた、そんな表情をして伊藤君が言いました。
「サボってるとか、ウソをついているってずいぶん言われたけど、自分でもなんで動けないのか、お腹が痛くなるのか分からなかった…。
行かなきゃって頭では思ってるのにどうしても学校に行くことができなくて…。
弱い自分が嫌で嫌でたまらなかった。」
「不登校や引きこもりになってしまった人は、自分のことを弱い人間だと思っている人が多いんだけど、それも思い込みなんだ。弱いから動けなくなっているんじゃなくて、体をメンテナンスするエネルギーまで奪ってしまうくらい、脳が危険を感じてエネルギーを使ってしまっているってことが問題なんだよ。
君の場合は周りの期待を自分もそう望んでいると思い込んでしまったのが原因だよ。
人は、自分が好きなことや自分が心から望んでいることをしているときは、心の底からエネルギーが湧き出てくるものなんだ。だから疲れても回復するし、燃え尽きることもない。
自分が心から望んでいなければエネルギーは消費されるばかりでいつか燃え尽きてしまう。
伊藤君はそんな状態の時、ここに来たんだよ。
それが分かっていたから、学校も勉強もどうでもいいって言ったんだ。
ガス欠の車を走らせることは無理だろう?
人もそうだよ。エネルギー不足の時に、なんで動かないのかって言っても無理なんだ。
解決するためには、何が原因でエネルギーを消耗しているのか探して、その原因を片付けないとね。
それが解決すれば自然と動けるようになるんだから。
君も自らやりたいと思えるものを見つけたら、自然とエネルギーが湧いてきて動けるようになるよ。
まず、その前にとにかくエネルギーをためること!たぶん、脳が安全を感じて安心しているはずだから、しばらくは寝ても寝ても足りないくらい眠れるはずだよ。」
「…その通りです。ちょっと前くらいから、寝ても寝ても眠くって。一日の半分以上は寝てると思います。よかった、俺、怠け者になっちゃったわけじゃないんですね。」
あーよかった、と笑いながら伊藤君が言いました。
「そうだよ、今はジャンプする前に膝をかがめて力を蓄えている時みたいなものなんだ。焦ることはないよ。」
カウンセリングを終えて帰っていく伊藤君を見送りながら、青木さんが一さんに言いました。
「伊藤君、ずいぶん落ち着いたみたいですね。」
一さんはにっこり笑いながら言いました。
「彼はもう大丈夫。もともと頭のいい子だし、信じるっていうことを思い出してくれたからね。
信頼関係ができて自分が何をしたいのかさえ見えてきたら、カウンセリングはもう半分以上成功したようなものさ。後はちょっと背中を押してあげれば、どんどん自分で前に進みだしていくよ。」
「信じるってすごいことなんですね…。」
青木さんはしみじみとかみしめるように言うと、「先生お疲れさまでした。おいしいコーヒー淹れますね!」と奥に向かって歩き出しました。
「コーヒー、いいね!!青木さんのコーヒー淹れる腕、僕は信頼してるよ。」
「セラピーの腕よりは、って言いたいんですよね、先生は。こうなったら、うんとおいしいの淹れて見返しますからね!」
「何もそこまで気合い入れなくても…セラピーの技術もそこそこ信頼してるのになぁ。後は経験ってとこかな。」
ぼそぼそと独り言を言う一さんをよそに、青木さんはコンロにやかんをかけ、お茶の支度を始めるのでした。