「私、もうどうしたらいいか分からなくって…」
そう言って、恭子(きょうこ)さんはしくしくと泣き続けていました。
何度かカウンセリングに通い、状態が落ち着いた恭子さんは落ち込むことや困ったことがあると時折予約を入れて一(はじめ)さんのところにやって来る、ここをお守り代わりのように思っている人でした。
「鈴木さんのところに行って話せば気持ちの整理がつくかと思って…。」
そう言って恭子さんは話し始めたのですが、すぐに嗚咽(おえつ)交じりになってなかなか進まないのです。
一さんに促されながら恭子さんはやっとのことで話した内容は、別れた彼のことでした。
「一年ほど前に、彼のほうから言い出して付き合いだしたのに、急に一方的に別れを切り出してきたんです。
付き合っていた時もどちらかというと自分勝手なところのある彼に振り回され、そのたびに辛い目に会ってきました。
何回も大泣きしては、落ち込んでうつ状態になることを繰り返してきたんです。
でも、彼が謝ってくれたから…最終的にはいつも私が折れて、自分勝手なわがままや浮気を許してきました。それでもまた同じことを繰り返してしまうんです…」
それでも彼に怒りをぶつけることはなく、ひたすら耐えてきた彼女に対して、彼はあっさりと他に好きな人ができたと言い、去って行ったというのです。
そう話しながらも涙の止まらない恭子さんに、一さんもどうしたものかと思案していました。根本的な原因は、ほぼ分かってはいるのですが、何度説明しようとしても泣くばかりで殻に閉じこもってしまう彼女に、ついに一さんは言いました。
「恭子さん、あなたはどうにかしたいと言っているけれど、今のあなたの行動は何を提案しても受け入れない、変わらない、と言っているようなものですよ。このまま話していてもよくはならないから、今日のところはお帰りなさい。」
時間よりも早く恭子さんがカウンセリング室から出て帰って行くのを見て、お茶のタイミングをはかっていた青木さんは、慌てて一さんに尋ねました。
「先生、いいんですか?!恭子さんあんなに憔悴しきって泣いているのに帰してしまって。大丈夫なんでしょうか?」
あいさつもそこそこに、帰って行った彼女を心配して尋ねる青木さんに、一さんは言いました。
「今はね、落ち込んで自己否定的になってるけど人に対しても否定的なNO-NOの状態なんだ。こんな時には何を言っても受け入れることなんかできないよ。
大丈夫、彼女も昔からしたらずいぶん成長してるから。落ち込むだけ落ち込んで、人からのアドバイスを受け入れられる状態になったら、自分から訪ねてくるよ。
基本的にはとても賢い女性だからね。」
でも…と心配げに口をはさむ青木さんに一さんはもう一度はっきりと言いました。
「自分がどうにかしてあげることができるなんて思っちゃだめだよ。変わるのはあくまで本人。本人に受け入れ体制ができてない時には僕たちは何もできないんだよ。待つしかないんだ。」
ハッとしたような顔をして青木さんは言いました。
「そうでした、すみません。セラピストに手助けができるのはそうする気のある人だけですよね…。分かっているつもりだったのに、どんな人でも変えてあげられるような気持ちになってしまってました。」
「セラピストだって万能じゃないよ。その代わり、自分から変わりたいって望んでくる人は、一刻も早く解決できる方法を一緒に考えてあげなきゃね。」
数週間後のことでした。もう一度恭子さんのほうから電話がかかってきたのです。
「鈴木さんに、もう一度お話を聞いてもらいたいんですけど…」
以前よりしっかりとした口調の恭子さんに少々驚きを覚えながら、青木さんは手早く予約表の空きを確認し恭子さんに伝えました。
恭子さんは3日後に来所することになりました。
「ずいぶん、元気になったみたいですね。何かありましたか?」
3日後に尋ねてきた恭子さんの様子に安堵しながら、一さんは尋ねました。
「彼のことは、今でも思いだせば辛くはあるんですけど…仕事もありますし、そうそう落ち込んでいられないほど忙しくって…」
活気が出て、血色も良くなった顔ではにかんだように微笑みながら恭子さんは続けました。
「実は4月に部署の移動があって違う部署で働くようになったんですが、ここがもう散々なところで…。あ、いえ部署が悪いわけではないんですけど、仕事を引き継いだ人の引き渡し方がそれはもうひどくって。
書類の整理はできていないし、やり残しているものの経過もろくに引き継いでなくって。
あれこれ引っぱり出してみても分からないものを問い合わせると、『全部そろっているはずです。』の一点張りで、もうめちゃくちゃ腹が立つんですよ!!
これじゃ埒があかないって、自分でやるしかないって思ってバリバリしだしたとたん、彼のことを忘れたわけではないんですけど、涙が止まらなくて何もする気にならないっている状態からスポーンって抜けちゃったような感じなんです。
自分で思っていたみたいに彼のこと好きじゃなかったのかしら?って思うくらい。
自分では情が厚いって思ってたけど、案外薄情だったのかしら?
今回はそんな感じで自然に元気にはなったんですけど、大泣きしてはうつになるこのパターンそろそろなんとかしなくっちゃって思って、もう一度お尋ねしたんです。」
一さんは、にっこり笑うと言いました。
「恭子さん、あなたはすでに自分でちゃんと解決しているじゃないですか。」
「?」きょとん、とした顔の恭子さんに一さんは説明してあげました。
「怒りですよ。いい加減な仕事をしている人に腹を立てて、怒りを起爆剤にバリバリ仕事をしだしたとたん、うつがよくなってしまったでしょう?
怒りは人を攻撃するものではなくて、自分を守るためや、それをばねにして状況を良い方向に向けるために使う感情なのですよ。正しく使ったら仕事がはかどっていい状況になったでしょう?
あなたは怒りを悲しみにすり替えてしまっていたから、大泣きした後に、いつもうつになってしまっていたんですよ。悲しみではなくて、怒りが本物の感情だったんですよ。
本物の感情は使っても状況を悪くしないし、後を引かないものなんです。」
「怒り…ですか…?」
「あなたは怒りを使うと周りの状況が悪くなってしまうと思っているでしょう?
何かそんな体験をしているはずですよ。」
しばらく考え込んでいた恭子さんは、あっと声を上げるとこう言いました。
「そうです!ありました!中学校の頃だったと思うんですけど…。
友達が言ったことに『違うよ!』って怒ったことがあったんですけど、その時、友達が怒ってしまって…しばらく口をきいてくれなかったんです。それ以来、怒るのが怖くなってしまって…
もともと、小さい頃から『女の子はにこにこしてないと』『女の子が怒ったら見苦しい』
って言われ続けて育ちましたから、人前で怒るっていうことがはしたないという感覚も強くって。」
「そうだったんですね…。カウンセリング中、前から気にはなっていたんです。あなたは怒って当然のことをされている話をしている時も口元が笑っていたし、怒りを出せるように誘導しようとしても、
自分がいけないんだという方に話しをもっていってしまっていたし。
怒っていること自体を忘れてしまっているような感じだったから、しばらく時間を置いた方がいいかなと思って、かわいそうだったけれど前回は帰ってもらったんです。
青木さんはずいぶん心配してましたけどね。」
「そうだったんですか…私この間は、鈴木さんにまで見放されたような気持ちになってしまって…。そういうことだったのですね。」
そう彼女が言って、和やかな雰囲気にカウンセリング室が包まれたときでした。
ドアをノックして、青木さんがコーヒーを運んできました。
「お茶が入りましたよ。」
そういって青木さんが恭子さんの前にコーヒーのトレイを置くと、恭子さんはにっこりして言いました。
「青木さんにも随分御心配をかけてしまったみたいで…、ありがとうございました。」
「あ、いえ…そんな…、先生の考えも分からずに、一人で勝手に思っていたことなので…」
そういって恐縮する青木さんに、恭子さんは言いました。
「その、人を思いやる気持ちをお持ちの青木さんですもの、きっといいセラピストになられますよ。」
「どっちがクライエントか分からないね。」
一さんの一言に、カウンセリング室がさらに和やかな空気に包まれました。