夏本番も真近な土曜日の昼下がり、ご近所で早苗(さなえ)さんと仲のいい女性が早苗さんを訪ねてきました。
「早苗さんいるー?実家からたくさん野菜が送ってきたから、お裾わけにきたよー!!」
実家のお父さんとお母さんが、家庭菜園で作ったという野菜はどれもプロの農家の人が作ったかのように立派です。
初夏の日差しを浴びた、ナスにきゅうり、トマト、とうもろこし、それに立派なじゃがいもまで!!
仁実(ひとみ)に夏用のワンピースでも…とミシンを出そうとしていた早苗さんは、その手を止めて返事をします。
「ごめーん由里(ゆり)さん、今手が離せないから、上がってきてー。」
「じゃ、遠慮なく。」もともと早苗さんとお茶でも飲みながら話でも…と思っていたのでしょう、渡りに船といった様子で由里さんは玄関から、早苗さんの声のしたリビングに向かいました。
「ちょうど、ワンピースでも縫おうかなって思ってミシン出してたとこなの。座ってて、冷たいものでも入れるから。」早苗さんはそういうと、クローゼットから出しかけたミシンを、えいっとばかりに押し込むといそいそとキッチンに向かいました。
「相変わらず器用ねぇ、私はそっち系はてんでだめ…体動かす方が性に合ってるわ。」
学生のころはバリバリのスポーツマンだったという由里さんはソファに腰掛けながら言いました。
「向き不向きってあるからね、由里さんはスポーツ上手だもん、バレーの試合、そろそろじゃない?」
グラス一杯に氷を入れ、アイスコーヒーを落としながら早苗さんが言います。
「うらやましいよ、私、球技なんて、てんでだめ。好きなんだけど、センスないみたい。」
「あはは…確かに早苗さん、トロそう…」由里さんは悪びれずにいます。
「あ、コーヒーうんと濃くしてやる…」言葉とは裏腹に、笑みを浮かべながら早苗さんは由里さんの前にアイスコーヒーを置き、自分用にグラスを持って来てソファに腰掛けました。
由里さんの持ってきてくれた野菜を受け取ると、かごを覗き込み歓声をあげます。
「うわあー!すっごくぴかぴかでおいしそう!こんなにもらっていいの?」
「うん、うちの実家もう父と母二人だけなんだけど、田舎だから庭が広くってほとんどが畑なのよ。一種類の野菜を種一袋播くとすごくたくさん出来ちゃうらしくって、あちこちにお裾わけして回るのよ。うちにもこの倍はあるから遠慮しないで使って。何ならもっと持ってきてもいいけど?たくさん料理出来たら、お裾わけしてくれたらいいから。」
ちゃっかりと由里さんが言います。
「あら、うちは作っただけご飯のおかずはなくなっちゃうのよ。腹ペコ王子がいるから。こんなに暑いのに、夏バテなんて全くなし。食欲全開よ、うらやましいくらい。」
『腹減ったー!晩ごはん何?』が口癖の長男、一輝(かずき)の顔を思い浮かべながら早苗さんは答え、クスッと思い出し笑いをしました。
「この間もね、一(はじめ)さんが外で済ませてくるからって言ってたのすっかり忘れてて、5人分って思って作ったら、一輝が『余ってんならおれにくれ』って言ってきれいさっぱり平らげてくれちゃって…。後で一さん帰って来て、『飲んでたらあんまり食べてなくって、お腹すいちゃった』って言うんだけどみーんなからっぽで、始めから準備するの大変だったのよ。
まったく、仁実に食欲分けてやってほしいくらい…こっちは暑さで、細い食がますます細くなってて。でも、トマトは大好きだから今日は大喜びね。完熟でおいしそう、このトマト。」かごの中から、大きなトマトを手に取って家族の顔を思い浮かべながら早苗さんが話します。
「ご実家のお父さんとお母さんにもごちそうさまってお伝えしてね。今度また何かちょっとしたものでも縫(つくろ)うから、里帰りする機会があったら渡してくれると助かるな。」
そういった瞬間でした。由里さんの笑顔がふっと曇ったのです。
わずかな表情の変化でしたが、早苗さんは見逃しませんでした。聞いてみていいものか迷いましたが、やっぱり気になって、早苗さんは由里さんに尋ねてみました。
「由里さんどうかした?私なんか変なこと言っちゃったかなあ?」
早苗さんが心配げな顔をしているのを見て、由里さんがあわてて言いました。
「あ、気にしないで。早苗さんじゃあないのよ…最近、実家に帰ってなくって…
そんなに遠くでもないし、兄弟が跡継いでるわけでもないから、いつでも気軽に行けるんだけど…なんか足が向かなくってずいぶん行ってないのよね、実家まで。元気にしてるとはいえ、一番近い娘は私だから様子見に行ってあげないとっては思うんだけど…親不孝な娘よねえ…両親は気にかけてくれてて電話くれたり、野菜なんか送ってくれたりするんだけど、顔合わせるとなぜだかいつも父とケンカになってしまって。似たもの親子なのかなあ、父がすることっていちいち癇(かん)に障(さわ)るって言うか、ムカついちゃうのよ。」
いつも明るくて元気のいい由里さんが、珍しく沈んだ様子でお父さんのことを話すのを聞いて、早苗さんもちょっと驚きました。
「そうだったの、よくご実家からのお裾わけも頂くから、ご両親とうまく行ってるとばかり思ってたわ。もう長いこと、そうなの?」
うーん…と腕組みをしながら、由里さんは考え考え、話し始めました。
「何か特別きっかけがあったわけじゃないんだと思うけど、結構昔からそうなのよねえ…。もう歳なんだし、優しくしてやらなくっちゃと思うんだけど顔を合わすとついつい文句ばかり言っちゃって。まあ、うちの家族ってみんなけんかっ早いって言うか、よく怒ってるけどね。子どもも、もっと大きくなったらなかなかじいちゃんばあちゃんちにはついてこなくなるだろうし、今のうちに連れて行っておかないと、とは頭では思うんだけど、つい、他のことを優先して後まわしになるのよね…。」
いつも、一さんから話を聞いている早苗さんは、ピン、とくるものを感じていました。
(これって、偽物の感情なんじゃないかしら…?)
その晩、お裾わけしてもらった夏野菜満載の食卓を囲みながら、早苗さんは思い切って一さんに今日聞いた話をしてみました。
聞き始めたとたん、仕事モードに入ってしまった一さんは、箸で焼きナスをつまんでいたのも忘れてしまったかのように真剣な顔をして言いました。
「偽物の感情だな、家族みんなが怒りを間違って使ってるんだ。」と言いました。
パクリ、と焼きナスを頬ばる一さんを見て(あら、忘れてるわけじゃなかったのね。)と妙なところに感心しながら、早苗さんはさらに聞きました。
「どうしたら、腹が立たなくなるの?」
「うーん、ほんとなら事務所においでっていうとこだけど、早苗さんの友達だし、ぼくも顔見知りだから改めてくるのも恥ずかしいかもしれないしね。おいしい野菜のお礼ってことで…」そういうと、一さんは早苗さんに解決方法を伝授してくれたのです。
数日後、お裾わけのお礼にと作業用の腕カバーを
二人分縫って、早苗さんは由里さんのお家を訪ねていました。
「この間のお礼に来たわよー!由里さんちょっと寄って行っていい?」
玄関先でそう声をかける早苗さんに、由里さんが顔を出して言いました。
「お礼なんかよかったのに!でも、寄ってくれるのは大歓迎よ、丁度一休みしようかなって思ってたとこ。」上がって、上がってと早苗さんを急かしながら、由里さんはリビングに移動し、「ちょっと待ってて、おいしいケーキもらったのよ。」と言いながらキッチンに消えていきました。
しばらくしてお茶とケーキを持った由里さんが戻ってきました。
「本当においしいのよ、このロールケーキ!」はしゃいで話す様子が、ちょっと無理してるみたい、そう感じながら早苗さんは切り出しました。
「由里さん、この間のお父さんの話、私と一緒に解決してみない?
由里さんは一瞬、「えっ」という顔をした後、「ああ、あれはいいのよ、気にしないで。」と言いました。
でも、その目には迷っている様子が見え隠れしていました。
早苗さんはもう一度きっぱりと言いました。
「私、お節介は焼きたくないから由里さんが本当にこのままでいいんならもう言わない。でも、私は由里さんのことが大好きだから解決したいって言ってくれるなら手伝えると思う、たぶん…」
最後はちょっと弱気になってしまった早苗さんの言葉でしたが、由里さんには響いたようでした。
「みんな私のことは元気な明るい人って思ってるから、そんな風に心配してくれる人なんていなかったわ…。ありがとう。私も、もう意地はって平気な振りしてるのは正直しんどくなってたからお願いしてもいいかなあ?」
二人は椅子を3つ並べて、由里さんの偽物の感情探しをはじめました。
「右から順番に、『悲しい』『怖い』『腹が立つ』のイスよ。お父さんと言い争っているところを思い浮かべて、ひとつづつ座ってみて『私は悲しい』『私は怖い』『私は腹が立つ』って言ってみて。どれが一番しっくりくる?」
由里さんはひとつづつ座って確認し「悲しい」「怖い」「腹が立つ」…とつぶやきました。
そして、3つの椅子の前に立って、首をひねりながら、「やっぱり腹が立つかなあ…」と自信なさ気に言ったのです。
(やっぱり、本当に感情にはなかなか気づかないものなのね…古い脳の思い込みってすごいのね。)
始めは、間違った感情の使い方をしていることに気づかないかもしれない、小さな頃、そうする家族をみて怒りを使うことが正しいと刷り込まれているはずだから…そう言っていた一さんの言葉が改めて思い出されました。
その時はこう言ってみて、そう教えられた通りに早苗さんは言いました。
「怒りを使い続けていて、お父さんとの間はいい状況になるの?」
由里さんの目に涙があふれてきました…
「涙、なんて言ってるの?」そう尋ねる早苗さんに由里さんは言いました。
「悲しい…お父さんと仲良くしたい…」
小さな女の子のようなか細い声で、由里さんはつぶやきました。
「そうね、悲しいよね、みんなで言い争っているのは…もう、やめようよ」
こくん、とうなづきながら由里さんはしばらく静かに涙を流しました…
「私、小さい頃うちの中が大嫌いだった…。お父さんはお酒を飲むと愚痴を言って人の悪口を言って、怒って…母も呆れて私たちに向かってお父さんの悪口ばっかり。ちっとも楽しい雰囲気なんかなかった。早く家を出たいって思ってたわ。
大人になって、結婚して家を出てみて親のありがたさや大変さも分かるようになって頭では『愚痴の一つくらい言いたくなることも、怒りたくなることも、あったんだよね』って思えるのに、ちっとも感謝の気持ちやいたわりの言葉をかけてあげることができない自分が嫌だった…」
由里さんの涙が止まったころ、早苗さんは持ってきた腕カバーをそっと差し出して言いました。
「今度のお休み、これ持ってお家に帰ってみたら?きっとお父さん喜んでくれるよ。」
「そうする、ありがとう早苗さん。」由里さんはしっかりと早苗さんの手を握って答えました。
その晩、ことの成行きを一さんに報告した後、早苗さんが言いました。
「何で、由里さんが始めに怒りを選ぶのが分かったの?あなたの頭の中、一回のぞいてみたいわ…」