新年度のあわただしさもまだ落ち着かないまま、大型連休を迎えようとしていた4月末のある日、一(はじめ)さんは久しぶりに「奴(やっこ)」ののれんをくぐっていました。
「あっ!おじさんお久しぶり!!」看板娘のさっちゃんがいち早く気づきのれんをくぐって「今日のおすすめ」の看板を食い入るように見ていた一さんをいつものカウンター端の席に案内します。
おやじさんの無駄のない包丁さばきを見ながら、大好きな釣りの話やおいしい肴(さかな)の話ができるこの席が一さんはとても気に入っていて、もうずいぶん昔からそこに座るのを決めているのです。
お造りをひとつ器に盛って顔をあげたおやじさんが一さんを見てうれしそうな顔を見せました。
「ずいぶんご無沙汰だったね、鈴木さん。」
手元は相変わらず忙しそうに動かしながら、カウンター越しに「1番のお客さんに。」と
お造りを渡しながらさっちゃんにてきぱきと声をかけ、「さ、どうぞ。」と一さんにおしぼりを渡しながら腰掛けるよう促します。
おやじさんも一さんと話をしたくてたまらなかった、そんな様子がありありです。
一さんが腰かけたとたん、すっと目の前に差し出された小鉢には、たけのこの味噌炒めが盛られていました。
「これこれ!これで一杯やりたかったんだ、おやじさん!」
箸を割るのももどかしく、一つ指でつまんで口の放り込むと、ふっと山椒の香りが口の中に広がります。
「やっぱりいいなあ、この香り。あ、さっちゃん、お湯割りね。」
そんな一さんを見ながら、おやじさんも満足げに次の仕事に取り掛かりながら話しかけてきました。
「ここんとこ、忙しかったですか?」
さっちゃんが運んできてくれたお湯割りに口をつけながら、一さんはうなずいて言いました。
「この時期は、毎年ね…環境の変化やら人間関係の変化でストレスのたまる時期だから…。ここも、お花見やら歓迎会やらストレス発散やらで大変だったでしょ?」
おやじさんもうなずきながら答えます。
「お陰さまで商売繁盛でした、こんなご時世の中ありがたいことですよ。」
相変わらず忙しく手を動かしながら、しばらく世間話をしていたおやじさんでしたが、ふと思い出したように顔をあげると「そういえば、鈴木さん、聞きたいことがあるんですがね…」と話し始めたのです。
それは、桜が満開になった2週間ほど前の週末のことでした。
ある学校の先生達が近くで歓迎会を兼ねたお花見をした後、親しい人たちが数人で2次会をしようと奴によってくれた時のことでした。
一人の若い女性の先生が30代半ばくらいの男の先生に話しかけていたそうです。
「そういえば内藤先生、お子さんだいぶ大きくなられたでしょ?佳奈(かな)ちゃんでしたっけ、写真見せて下さいよ。」
すると内藤先生と呼ばれていた男性が携帯をとりだしながら「もうすぐ一歳になるんですよ。ほら、うちのお姫様、可愛いでしょう?」と目じりの下がった顔でうれしそうに写真を見せていました。
「わあ、可愛い!目がすっごくおっきくてクリクリしてる!美人になりますよお、佳奈ちゃん。どっち似かしら?奥さん似?」
その会話にほかの先生達も加わって、携帯の写真を次々手渡しながら盛り上がっていたというのです。
ちょうどその時、奥で洗い物をしていたさっちゃんが手を滑らせて大皿を一枚割ってしまったのです。
「ガチャン!!」
皆、あれっといった程度の反応だったのですが、内藤先生と呼ばれていた男の人だけは周囲が驚くほどびくっとしてバツが悪そうに「最近、大きな音にすごく驚くようになってしまって…」と言い訳をしていたというのです。
2次会もお開きになり、カウンターで飲みなおそうと一人残った内藤先生がぽつぽつとおやじさん相手に話し始めました。
「さっきは、びっくりさせてしまいましたね…すみません。こんなこと前はなかったんですが…車の運転や高速道路も最近は妙に恐ろしくって、こんなに怖がりじゃなかったんですが、すっかり臆病になってしまって…なんでですかねえ。」
ため息混じりに話す先生に、おやじさんも「無鉄砲よりいいですよ、お子さんも小さいんでしょう?しっかり気をつけておかないと。」としか言えなかったというのです。
「こういう人も、カウンセリングでよくなりますかねえ、鈴木さん?」
そう尋ねるおやじさんに、すっかり仕事モードになって話に聞き入っていた一さんは言いました。
「たぶん、治りますよ、その先生。」
十日ほどたったある日、一本の電話が入りました。
「あの、鈴木さんの事務所ですか?私は内藤といって中学校で教師をしているものですが。
知り合いのお店のご主人がこちらで臆病を直してもらえるらしいって言われたんですが…本当でしょうか?」
何も聞いていなかった青木さんは一瞬めんくらった顔をしつつも、状況を把握しようとたずねました。
「すみません、差し支えなければそのお店の方のお名前うかがってよろしいですか。」
「ああ、すみません。奴(やっこ)という居酒屋さんのご主人で田中さんっていう方なのですが。」
奴、と聞いて青木さんはピンときました。
(先生、奴のご主人から何か聞かれて「その人治るよ」って話したんじゃないかしら)
勘で(!!)大まかな事情を察した青木さんは電話口に向かって言いました。
「一度ご予約入れられておいでになってみられませんか?」
さらに一週間後の土曜日、内藤先生は事務所にやってきました。
男の人にしては線の細い優しげな内藤さんは入ってくるなり青木さんに深々と頭を下げ「よろしくお願いします。」と言いました。
つられて深々と頭を下げながら青木さんは内藤さんをカウンセリング室に案内し「こちらにお掛けになってお待ちください。」とソファにかけるよう促しました。
「ありがとうございます。」
内藤さんは腰掛けるときれいに飾られたカウンセリング室の中をきょろきょろと見回していました。
青木さんは事務室に戻るなり「先生、大丈夫ですか?本当に憶病って治るんですか??」と食い入るように一さんを見つめて言いました。
コーヒーカップをデスクに戻しながら、一さんは余裕の笑顔で言いました。
「まあ、見ててごらん。」
カウンセリング室に入ると内藤さんはさっと立ちあがり「よろしくお願いします。」と頭を下げました。
「どうぞ、ソファにかけて楽にされてください。」一さんはそう言って腰かけると
「今回はどうされたのですか?」と内藤さんに問いかけました。
「大体、田中さんから聞かれていると思いますが…」内藤さんはそう言って話し始めました。
中学校の教師として大学卒業後から働いていた彼は3年前に同僚だった奥さんと結婚、ちょうど一歳になる娘が一人の3人家族。
ここ一年ほど前から大きな音を聞くと自分でもなぜだか分からないほど驚いたり、高い所や車の運転、特に高速道路の運転に緊張するようになり時には恐怖からパニックになることもあるというのです。
小さい時に大きな音や高いところ、車の事故などで怖い思いをしたこともないし、こんなに怖がりになるような心当たりもない、訴える内藤さんに一さんはひとつ質問をしました。
「内藤さんが小さい頃、お家の様子はどうでしたか?」
突然、何の関係があるのか分からない質問をされ、一瞬、面食らった顔をした内藤さんでしたが、昔のことを思い出そうと目を閉じながら答えました。
「私は早くに父を亡くし、母と姉の3人暮らしでした。父が亡くなったのは病気と聞いていますが、うっすらと記憶があるかないかくらいにしか父のことは覚えていません。
専業主婦だった母は小さかった私たちを祖母に預けながら働きに出て、女手一つで私たちを育ててくれました。何の資格もなく、仕事に出たこともなかった母はずいぶん苦労をしたようです。幸い体は丈夫だったので、常に何かの仕事に就くことはできていたようですが…3人が生活するのにやっと、といった状態でした。
『お前たちは手に職をつけなさい』というのがずっと母の口癖でした。
私も姉も家に経済的なゆとりがないことは小さい頃から感じていましたので、おねだりをすることもなく、早くから家のことを姉と二人で分担して母を助けてきました。
姉は看護師の資格を取り、結婚後も看護師の仕事を続けています。母は一人暮らしをしていますが元気にしています。皆、行き来することは少なくなりましたが、それぞれ車で30分位のところに住んでいて何かあればすぐ行き来できます。」
「そうですか。」目を閉じて話を聞いていた一さんはゆっくり目を開くと視線を内藤さんに向け言いました。
「お父さんを早くに亡くされて、ずいぶん苦労されたのですね。」
内藤さんは答えました
「はい、娘にだけはこんな思いはさせたくない、そう思います。」
そういった瞬間でした。
「それですよ。」にっこり笑って一さんが言ったのです。
「え?」
内藤さんは何の事だかさっぱり…という顔をして一さんを見ています。
「お父さんを亡くして苦労したあなたは自分の子どもにだけはこんな思いをさせたくないと思うあまり『死ねない』という思いがあまりにも強くなりすぎてしまってるのですよ。
ですから大きな音に過敏になったり少しでも危険に思うこと、高い所や高速の運転に異常に緊張したりするようになってしまったのです。ちょうど重なるでしょう?お子さんが生まれたころと、症状が出だした時期が。それだけ愛情が深いということですよ。」
ぽかん…とした表情で一さんの言うことを聞いていた内藤さんは思わず「あー!!」っと
声をあげていました。
「そうか…そうだったのか…」
絞り出すような声でそれだけ言うと、その目には涙があふれ出しました。
内藤さんの涙が落ち着いたころ、一さんは言いました。
「お子さんのお名前は?」
「佳奈です。」
「じゃあ、佳奈ちゃんになりきってみて言ってみてください。『パパ、私は大丈夫だから心配しないで。』って。さあ、私は佳奈です、って言ってパパに大丈夫だと伝えてあげて。」
内藤さんは戸惑いながらも言われたように「私は佳奈です。パパ、私は大丈夫だから心配しないで。」とつぶやきました。また、両方の目から涙があふれてきました。
「私に何かあっても佳奈は大丈夫なんですね…」
何回も頭を下げながら内藤さんが帰って行ったあと、お茶の片づけもそこそこに青木さんは一さんのデスクの前に陣取り「さあ、話して下さい!どうやって臆病を直したんですか?!」と詰め寄りました。
カウンセリングの間中気になって気になって仕方がなかったのです。
「まあまあ、落ち着いて!一服させてよ。」
飲み残してカウンセリング室から持ってきたカップを手に一さんが苦笑します。
「私、一番弟子ですから!先生の技、ぜーんぶ知りたいんです!」
「愛情だよ、愛情。」
頭の中が「???」になっている青木さんを見ながら残りのコーヒーを飲みほすと、
「順を追って話してあげるから。」と苦笑する一さんでした。