リビングの一角で「わあっー!これいいねえぇ」と華やかな声が上がりました。
早苗(さなえ)さんと瑠実(るみ)、仁実(ひとみ)の三人の女性群がリビングで額を寄せ合うようにして覗き込んでいるのは、何と通販カタログです。
ここのところ、一気に春を通り越して夏のような陽気が続き、さあ衣替え!となったとたん、三人が異口同音に言いだしたのです。
「去年の今頃って何着てたっけ?」
タンスやクローゼットに何もないというわけではないのに、「着る服がないー!」と思うのは女性の性(さが)なのか?ついつい新しいものが欲しくなってしまった三人はつい先日ポストに入っていた通販カタログを引っ張り出し、あれでもないこれでもないの大騒ぎになった、という次第なのでした。
押入れの奥から衣替えにための衣装ケースを引っ張り出すために駆り出された一(はじめ)さんは
リビングから華やいだ声が聞こえたと同時に悟りました。
「あーあ、衣替えのこと忘れちゃってるな。あの様子じゃ…」
外は五月晴れのカラリとしたいい天気。乾燥したさわやかな風が吹く日曜日の昼下がり。
部活に行っている一輝(かずき)を除けば、偶然予定のなかった一さんを含む三人は、早苗さんの鶴の一声で衣替え&虫干しに駆り出されていたはずだったのですが…
無駄な抵抗とは知りながら、リビングに向かって一さんは声をかけました。
「おーい、お茶。…が飲みたいなあ…」
やっとのことで、お茶の催促が聞き入れられ、四人はリビングのテーブルの周りに思い思いに腰掛け、コーヒー、ジュース、お茶…と思い思いの飲み物で渇いたのどを潤していました。
「ねえ、お母さん。まだ時間があるからちょっと街まで行ってみない?さっきのカタログに載ってたスカート、あんなの見つけに行きたいなあ。」と瑠実が言い出せば「私はミュール!載ってたでしょう?ちゃんとヒールがあるやつ!私もあんなカワイイの履いてみたい!」と仁実がおねだりを始めました。
「そうねえ…それならママも見に行きたいのあるんだけど…?」
三人の視線をひしひしと感じた一さんは言いました。
「スポンサーは無理かもしれないけど、足にはなるよ?」
ほんの少しの沈黙の後、早苗さんがちょっと言い出しにくそうに、言ったのです。
「スポンサー、なれるかも?実はママ、へそくりがあるの。」ぺろりと舌を出しながら、
案外さらりという早苗さんを崇拝の眼で見つめる二人の娘と、意外そうな一さん。
「へえー、ママへそくり持ってたんだ。」という一さんに照れくさそうに早苗さんが答えます。
「実は趣味で作ってたバックとかの小物、お友達のお店においてもらえたの。ちょっとづつだったけど、結構たまってるんだ。」
手先の器用な早苗さんは子どもたちが小さい頃からちょっとした遊び着を縫ったり、手提げやポーチを作ったり、と結構お裁縫が得意なのです。
「ママ、芸は身を助くってこのことだよね!」お茶目な仁実の一言に「すごいでしょ!」と腕を曲げ、力こぶを作るポーズをとってみせる早苗さん。
スポンサーの出現で、お出かけの話はすっかりまとまり、3人のお姫様を乗せて一さんの愛車ランクルはすべるように出発しました。
買い物を始めて間もなく、早々に目的のものを見つけた早苗さんは一さんと二人、ショッピングモールのコーヒーショップで一休みすることにしました。
コーヒー豆を量り売りするお店の一角にその場で好みのコーヒーを入れてもらえるカウンターがあるので、安くておいしいと二人のお決まりの休憩場所なのです。
二人の娘には、「ここで待ってるから、ゆっくり探しておいで。」と送り出して、二人でゆっくりと午後のコーヒータイムです。
「二人とも女の子を満喫してるなあ…。」
うれしそうに連れだってお目当てのお店に向かう二人を見送りながら一さんが目を細めると、早苗さんが答えました。
「女の子も男の子も、自分の性別をエンジョイできるって素敵よね。私も男だったらなあって思ったことほとんどなかったなあ…。あ、お産の時は思ったかも。」笑いながら早苗さんは続けます。
「おしゃれの話をしたり、おいしいものを食べに行ったり、女の子ってちょっとしたことで幸せになれるでしょ?そこがいいのよ。男の人からしたらちっちゃいなあって思うかもしれないけどね。」
「うーん、僕も女なら良かったってことは記憶にないかな。野球もできたし、こまごました家のことは苦手だしなぁ…」
「あら、家のことだって楽しめるのよ。決めた食費でやりくりできたときとか、お家にあるものだけで晩御飯作れた時なんか結構快感なんだから。お洗濯だって、からっと晴れた日に大量の洗濯物を干し終えた時って達成感あるわよー。」
「…そうなの?」
よく分からないなあという表情の一さんでしたが、ふと思い出したようにトラウマの話を始めたのです。
「トラウマによっては、女性の魅力を逆手にとって男をやっつけてしまうっていうことを無意識にしてしまう人もいるからね。素直に女性を楽しめるって幸せなことだよね。」
「それってどんなトラウマなの?」
「専門用語で『ラポ』っていうんだけど、容姿に自信を持っているきれいな人に多いんだ。自分の魅力を利用して男の人を夢中にさせては捨てていく…っていうと悪女みたいだけど本人は無意識なんだ。
自分では恋愛が長続きしない、恋愛にすぐ飽きてしまう、冷めてしまう…そんな風に感じるみたいだよ。そう言えば何年か前にも一人いたなあ。」
一さんはコーヒーを一口すすると、思い出すように視線を斜め上に向けて話し始めました。
3・4年位前のこと、カウンセリングを受けた人の紹介で一人の女性が事務所にやってきました。
「宮本由布子(みやもとゆうこ)といいます。よろしくお願いします。」そう言って頭を下げた彼女は、きれいな顔立ちをした20代後半の女性でした。
上手にお化粧を施した細面の顔に明るい色に染めたさらさらのセミロングの髪。
頭を下げたとたん、華奢な体には似合わず豊かな胸元が大きく開いた襟元からのぞき、一さんは目のやり場に困りながら、ソファにかけるように勧めました。
「失礼します。」彼女が一さんの前をすっと横切るとふわっと甘い香りが漂います。
なんとなく調子を狂わされながら、「今日はどうされたのですか。」と一さんが尋ねると
宮本さんは悲しそうに眉をよせ、話し始めました。
「私、恋愛が長続きしないんです。っていうか、片思いの時は相手の人のことが気になって気になって何も手に付かないくらい好きなのに、思いがかなって付き合い始めると途端に気持が冷めてしまうんです。自分でもなんだか分からなくって。熱しやすくて冷めやすい性格なのかなとか飽きっぽいのかな…って思っていたんですけど、友達も結婚し始めたし、私もそろそろ結婚を考えながらお付き合いしたいなって思いだして…もしかして理想が高すぎるのかしら?こんなことでもカウンセリングできますか?」
そこまで話すと、彼女は乗り出すようにしていた体を深くソファに腰かけなおし、すっと足を組みました。短めのスカートからすらりと伸びた脚。太ももがちらちら見え隠れしそうなその姿に、一さんはジグソーパズルの最後のピースがパチンとはまったような、ピンと来るものを感じていました。
(会ったときからの違和感はこれか…)
後は、本人にどう話していくか…考えを巡らせながら、一さんは尋ねました。
「宮本さんの小さい頃、お家はどんな感じでしたか?」
「私は2人姉妹で2つ離れた妹がいます。父と母と4人家族でした。母は専業主婦で父はとても腕のいい営業マンだったと聞いてます。『高い給料稼いできてるんだ!文句あるか。』っていうのが口癖でしたから。
子どもの私から見ても、母はかわいそうなくらい父のいいなりで、遅くに帰って来て母が何か聞こうものならそれはひどいものでした。怒って怒鳴りつけるわ、手をあげるわ…
酔っている時は一段とひどくて、寝ているふりはしていましたが妹と二人で布団の中でじっと息をひそめていました。…もっと大きければ母を助けてあげられたのに…」
そこまで話すと彼女は目を潤ませて一さんを見つめました。
「お父さんのこと、お好きでなかったみたいですね。」
そう尋ねる一さんに、すねたような甘えた声で宮本さんが答えました。
「あたりまえでしょう!いくら家族を養っているっていったって、あれでは母がかわいそう過ぎます…外で遊んで、悪いとも思っていないし、逆切れして家の中で暴力振るって!どれだけ恐ろしかったか…」
訴えに同調しない一さんに、少しいらついたような表情をする彼女に、一さんはこう言ったのです。
「あなたは、お父さんへの恨みを男の人にぶつけているのですよ。」
何の事だか分からない、といった表情の宮本さんに、一さんは言い聞かせるように話し始めました。
「誰かを好きになっても、振り向いてくれたとたん興ざめしてしまうことの繰り返しだったでしょう?恋愛ではなくて男の人をやっつけようとしていたのですよ。
あなたは小さい頃、お父さんがお母さんを叩いたり、怒ってあなたたちを怖い目にあわせたりすることをとても恨んでいた。でも、小さなあなたにはどうにもできなかったでしょうし、大きくなっても女性のあなたには男の人を力でやっつけることはできないでしょう?
あなたはお父さんへの恨みを男の人をやっつけるという形で晴らしていたのですよ。あなたの容姿なら、ちょっと優しくして興味のあるふりをすれば大抵の人は、振り向かせることができたでしょう。その気になったときに興味がない、と袖にされるほど男の人をがっかりさせることはないですからね。」
「…復讐(ふくしゅう)?」
「そうですよ、男の人をその気にさせて、とたんにそっぽを向くということは男の人に対して女の人ができる一番効果的な復讐ですよ。」
「私、そんなひどい女じゃっ…!」そう言いかけた彼女に一さんは動じる事もなく、落ち着いた声で説明を始めたのです。
「あなたが悪女だと言っているわけではないのですよ。そこを勘違いしないでくださいね。
小さかったあなたはお父さんを通じて男の人は女性に手をあげたり、怒りをぶつけたりしていじめる存在だと思い込んでしまったのですよ。世の中の男みんながそうではないことはあなたの理性では分かるのですが、あなたの中の傷ついた小さな女の子、つまりトラウマを抱えた古い脳はそう思ってないのです。
お母さんを苦しめていたお父さんに仕返しするように、あなたは自分の魅力を最大限に利用して男の人をやっつけてしまっていたのです。悲しいことにね。
トラウマに支配されている時は理性的な大脳新皮質にエネルギーが送られなくなりますから、あなたの場合、男性に関しては小さな女の子が主導権を握っているようなものです。
『やっつけなくっちゃまたお母さんがいじめられる、私たちも怖い目にあう』そう思って必死に男の人をやっつけていたのですよ。
本当の大人同士の真剣な恋愛なら、振り向いてくれたとたん冷めるなんてことや、飽きてしまうことはないはずでしょう?
その証拠にあなたは、逆に男の人が自分になびかなければ不安になってどんな手を使ってでもふりむかせようとしていたでしょう?
好きな人に振り向いてもらいたいのではなく、振り向かせて振ることでやっつけたい、そうあなたの中の傷ついた女の子が思い込みをしていたのですよ。
女の子にとってその方法が一番有効な攻撃方法だからですね。あなたにしてみれば知らず知らずのうちにそうふるまうことで恋愛がうまくいかず、なぜだろうという思いだったでしょうけどね。
小さい頃の思い込みやトラウマのためにつらい目にあいましたね。もう終りにして幸せにならないとね。」
宮本さんは、あっけにとられたような表情で聞いていましたが、次第に辛かった幼いころを思い出したのか目が潤み始め、泣きながら話を聞いていました。
「…そう…だったんですね…私が上手くいかない原因が、そんなに昔のことにあったなんて…。知らないうちにたくさんの人を傷つけてしまっていたのですね。」
手元のコーヒーが冷たくなるのも忘れて聞き入っていた早苗さんは、ホッと一息つくと
ひと口コーヒーを飲みました。
その冷たさに思った以上に時間が過ぎていたことに気づかされ、あわてて腕時計をのぞきこむと、そろそろ一輝が帰ってきそうな時間です。
「あの子たちお目当ての物見つかったかしら?そろそろ戻ってご飯作っといてあげないと腹ぺこ王子が帰ってきちゃう。」そういったものの、一さんの話は思った以上に驚きだったようで、「子どもたちって大人が思わないところで傷ついたり、思い込みを持ってしまったりするのね。それが大人になってこんな形で現れてくるなんて…。そう言えば、美容院で週刊誌か何かで見たわ。銀座のママの手記でね、ホステスさんには二通りの人がいるって。心からお客さんのためを思って楽しく過ごせるように心配りをするプロ意識を持った人と次々にお客を食い物にして家庭や会社まで壊させてしまう人。そんな状態までさせておきながら本人はけろっとして次の人に乗り換えていくんですって。こういうことだったのね。
心理の話ってみんなにもっと知ってもらわないといけないわね。」としみじみと話しました。
一さんもしみじみと言いました。「客観性って育つまで、10年くらいかかるんだ。その間子どもは自分の主観で善し悪しを決めちゃうから思い込みからトラウマを作ってしまうんだよ。僕は相談に来る人にそれを教えてあげてるって言っても過言じゃないかもね。」
「可愛いのあったよー!」
上機嫌で二人が戻ってきたのは間もなくのことでした。
「仁実と瑠実だけずるいって言われちゃうかな?何かおいしいお土産買っていかないとね。」
満足そうな二人の娘を見ながら目を細めて早苗さんが言います。
「そうと決まったら、食品売り場に行こ!」と仁実。
「服じゃなくって食べ物ってとこがやっぱり一輝の母ね。」瑠実が茶化します。
「あの一輝の食べっぷり、さすがに50が近づいてくると羨ましいものがあるなあ。胸やけ・胃もたれなんて知らないんだろうなあ。」一さんがぼやきます。
「あなたは働きすぎ!たまにはしっかり休めば胃腸の調子も良くなるわよ、きっと。」
「あれ?車出させたのは誰?」
夫婦漫才化してきた会話に二人の娘は「仲のいいことで!」と異口同音に言います。
四人はお互い顔を見合せて笑いながら食品売り場に急ぎました。