「一輝(かずき)、この間の逆転サヨナラツーベースヒット、すごかったな!」
夕食後のだんらんのひと時、かつては自分も野球少年だった一(はじめ)さんはまぶたの裏にその時の光景が浮かんできたのでしょう、目をつぶりながら感動をもう一度味わっていました。
「ああ!あれすごかっただろう!俺追い込まれるとがぜんファイトがわいてくるんだ。
『おれたちはこんなもんじゃないはずだ!』って。
リードされてたけど、ここで空振りしても、見逃し三振しても、打って取られても負けは負けなんだって思ったら、いっちょ思いっきりスイングしてやろうって思ってさ。そう思ったら、妙に落ち着いちゃって、コースが読めるんだよなあ。俺って天才かも?」
大好きな野球をいつまでもできることを信じて疑いもしない一輝を見ながら、自分にもこんな頃があったなあ、と妙に懐かしさがこみ上げてくるのです。
(久々に高校野球を見て、ちょっとせつなくなったかな。)
一さんは、久しぶりにあのワークのことを思い出しかけていました。
高校で野球をしていたのは、もう30年も昔のこと。ついこの間まで、一輝のようにグラウンドを走り回っていたように感じるのに…
セカンドで1番。ピカイチの選球眼で、確実に出塁してチームのチャンスメーカーになる、みんなに頼られる1番バッターだった自分。
お世辞にも成績がいいとは言えない学生時代、やっと人や親から認められたもの、それが野球でした。
親や親せきから期待され、特待生として県下でも甲子園の常連校である高校に進み、野球に明け暮れた日々。
大学への進学か、プロとしての野球人生か…そんな将来を思い描き、やっと居場所を見つけた、そんな思いでした。
しかしそれは、たった一回のけがで消えてしまったのです。
夢が断ち切られ、苦しんでいた20代の前半。その苦しさもあって心理学科を専攻し学んでいたころのことです。
一人の同級生が本を持って尋ねてきました。
「自己実現への再決断」と書かれたその本は、アメリカで有名なセラピストである
メリイ&ロバート・グールディング夫妻によるものでした。
事例を一つ一つ読み進むうち、その素晴らしさの虜になり、「おれにこの本売ってくれ!」と、半ば友人から奪うように買い取ってむさぼり読んだものでした。
とにかく、今の状態から抜け出したい一心で、疑問点を訳者である教授に手紙で問い合わせをしたのですが、その教授から帰ってきた返事はこうでした。
「あなたが分からないと言っているところが、どう分からないのかが分からないのです。
ちょうど、この本を書かれたグールディング夫妻が来日されるから、来てみてはいかがですか?」
願ってもない機会でした。
親や友人たちから、お金を貸してもらい無我夢中で夫妻の開催するというセミナーへ参加していました。
心理療法をグループで行うグループセラピーの形で開かれたワークショップ。初めて参加し、目の前で繰り広げられるセラピーに圧倒されていた自分。
「次は誰?」ロバートがそういった瞬間、ほとんど無意識に手を挙げていたのです。
「ハジメ、何を解決したいの?」
やさしいまなざしで、尋ねるロバートに夢中で訴えていました。
「ここ数年、熟睡できないんです。眠りが浅くて疲れが取れず、毎晩大量の寝汗をかきます。まだ、20代なのに、体調がよくてすっきりした気持ちの日がないのです…」
ドクターであるロバートは数点、体について尋ねました。そして最後にこう尋ねたのです。
「人生が変わるような大病や大けがをしませんでしたか?」
思わず、声を上げていました。自分でも見たくないとふたをして心の奥にしまいこんでいた出来事がよみがえってきました。気がつくと上を向いていましたが、それでも大量の涙があふれて床に落ちます。
そんな中でやっとの思いで声を絞り出していいました。
「頭に当たった打球で脳内出血を起こして、野球ができなくなったんです…」
夏の大会が終わり、3年生を送りだした後の、部の中心的な存在として、主将を助けながら持前の感覚のよさで、チームのまとめ役、相談役だった自分。
秋の大会、春の選抜、来年の夏の地区大会、そしてその後の野球人生。
自分の野球人生が突然断ち切られることなど微塵も疑うことがなかったころでした。
ある日の練習でのこと、グラウンドの両端でバッティング練習をしていて、ピッチャーをしていた時です。本当なら交互に投げるところを、もう一人のピッチャーがあと一球、というところで気が緩んだのか、一さんと一緒に投げてしまったのです。
ボールを投げた直後、背後から声がしました。
「鈴木!危ない!!」
はっとして、見たときには打球は目前に迫っていました。
顔面に当たらないように顔をそむけるので精いっぱいでした。
そこまで話すと、もうその後は声になりませんでした。
うつむき号泣する一さんにロバートがいいました。
「ハジメ、野球にさよならしないとね。今からハジメの引退試合をしよう!」
会場は、引退試合の球場になりました。
ロバートがいいます。
「ピッチャー大きく振りかぶって投げました!鈴木選手、打ちました!打球はぐんぐん伸びています。入りました!バックスクリーンに届く、特大アーチ!
逆転サヨナラツーランホームランです!」
時間は野球をしていたころに戻っていました。
一さんの目にも大きく弧を描いてバックスクリーンに吸い込まれていく打球が見えていました。会場をゆっくりと一周し、ワークショップに参加していた仲間たちがハイタッチで迎えてくれます。その興奮が収まる頃、ロバートが静かに言いました。
「ハジメ、終わったよ。もう野球とサヨナラできるね。」
また、涙があふれてきました。でも今度の涙はとても温かく気持ちのいい涙でした。
一さんは人生で初めて頭の芯がぼーっとするほど泣きました。その涙がいろんな思いを清算し、洗い流してくれたかのようでした。
一さんは、その晩から寝汗をかかなくなりました。
(あのワークがきっかけで、セラピストになりたいって思ったんだよな。)
この道を職業にし、ライフワークにするきっかけとなった出来事を思い起こし、一さんは感慨深く一輝の、野球の夢の話に聞き入ります。
あのころ持っていた野球に対する思い、そしてその夢が永遠に続いていくと思って夢を追い続けていたころ。
自分の不運を嘆き、人を羨み、後悔し続け苦しんだ日々。
しかし、それだからこそこの世界に足を踏み入れ、たくさんの人が自分を変え運命を変えていく素晴らしい場面に立ち会う仕事に就くこともできたのです。
「ほんとに人生ってわからないよな。」
思わずつぶやいた一言に、二朗が訳知り顔にうなずいたように見えました。