「あの…ちょっと伺ってもいいですか…?」
そう言って匿名の女性から電話がかかってきたのは、最終のカウンセリングのクライエントが帰り、後片付けも終わってそろそろ事務所を出ようか、と青木さんが戸締りをしかかった時でした。
カウンセリング室に置いてある観葉植物に水をあげ損ねていた、と大急ぎで水やりをしていた青木さんは、電話の呼び出し音がするのを聞いて大慌てで事務室に戻り、もう少しで留守電に切り替わろうとしていた電話に飛びつくようにして受話器を取り、言いました。
「お待たせしました、鈴木カウンセリング事務所です。」
乱れがちな息を整えながら答えた青木さん。すると、なかなか出ないので切ろうかとでも思っていたのでしょう、ちょっとあわてた様子の女性の声がしたのでした。
「あの…ちょっと伺ってもいいですか…?」
「はい、どういったことでしょうか?」
息も整い、問い返した青木さんに、その女性が聞いたのです。
「あの…子どもをぶってしまうのはカウンセリングで止められますか?」
「…!?」
女性の言葉に、一瞬答えに詰まった青木さんでしたが、電話してくるからには子どもに手を上げてしまうことをとても悔やんでいるのだろうと考え直し、なんとか力になりたいと、こう言いました。
「親御さんがお子さんをぶってしまうのも、小さな頃のトラウマからそうなってしまっている人、結構多いんですよ。やめようと思ってもやめられなくて自分を責めてしまう方も多くって…。一人で悩んでいるより、誰かに話してみるのも解決のためにはいい方法ですよ。」
「…子どもを憎んでいるわけではなくて、トラウマのせいでそうなってしまうこともあるのですね!」電話の向こうで少しほっとした声で女性が言いました。
「原因はいろいろですが、ご自身のトラウマを解決することで、子どもさんに手を上げることが少なくなってきた、といわれる方も中にはおられましたよ。思い切って一度、お話だけでも来て見られませんか?」
青木さんの言葉の様子から、諭されたり、非難されたりしないのだと、安堵したのでしょう、少し落ち着きを取り戻した女性が話し始めました。
「私、5歳の子どもがいるのですが、後になったって考えてみるとそんなに大したことじゃないと思えることでもすごく子どもを叱ってしまう時があるんです。言い出すと止まらなくって最後には叩かずにはいられなくなってしまうくらい…。後で必ず後悔するのに…。
もう二度と叩かないようにしようって思うのに、また叩いてしまって…私って母親失格ですよね…。」
次第に涙声になっていく女性に、どういってあげたらいいものか…。
それを考えていたとたん、青木さんの頭にいつも一(はじめ)さんが言う言葉が浮かんできたのです。
『自分を責めても何もいいことはないよ』
青木さんは意を決して声をかけました。
「自分を責めてもなにもいいことはありませんよ。ご一緒にそうなってしまう原因を見つけてみませんか?」
その言葉がよほど心に響いたのでしょう、「ありがとうございます…」そう答えた女性の声は涙声になっていました。
その女性が事務所に来ることになったのは二日後のことでした…
キャンセルが出て空いていた二日後の日時を伝えると、女性は二つ返事で「お願いします。」と言ったのです。
行こうと決めたからには、一日でも早く行って解決したい、そう思っているのが手に取るようでした。
「宇野佳代(うの かよ)と言います。明後日、よろしくお願いします。」
そう言って女性は電話を切りました。
帰り仕度をしたまま、電話が終わるまで自分のデスクに掛けて待っていた一さんは、青木さんの話していた内容から大まかな事情を察していたのでしょう、イスから立ち上がると
青木さんに向かって言いました。
「これで子どもがひとり救われるね。」
二日後の日差しの強い午後、宇野さんがやって来ました。
カウンセリング室に案内すると、青木さんは一さんに「宇野さんが見えました。」と報告しました。
その声を合図に、立ち上がり、一さんはカウンセリング室に向かいました。
「初めまして。鈴木です。」
そう挨拶する一さんに、宇野さんは立ち上がり深々と頭を下げ「よろしくお願いします。」と言いました。その様子からはとても子どもに手を上げているとは想像もつかないような、上品な感じの女性でした。
「お子さんをたたいてしまうのをやめたい、と聞きましたがご自身が小さいころに叩かれていたということはないですか?」
そう聞かれて、宇野さんはこう答えました。
「いいえ、父も母も優しい人で私や兄弟に手を上げたり、大きな声を出したり、ということはほとんどありませんでした。『家のことはほどほどでいいから、お前たちはしっかり勉強やおけいこをしていればいいんだよ』と言って、学校の勉強や習い事を最優先にしてくれていましたし、おねだりもよく聞いてくれる優しい両親でした。おかげで勉強に専念することができて結構いい大学に進学することができましたし、結婚するまでは地元では割と大きな会社に勤めることもできました。」
「そうですか。結婚してからはどうですか?ご主人や親御さん、親戚の人たちとの間は?」
「こう言ってはなんですが、結構いい嫁だと思います。義父母には従いますし、ご近所のお付き合いもとても気を使ってますし…主人にもよく仕えてきたと思います。
『いいお嫁さん』といわれるのがすごくうれしくて、がんばってきたつもりだったのですが…」
「…?どうしました?」
宇野さんの目にじわっと涙が浮かんできたのです。そして彼女はぽつりと言いました。
「子どもができたとたん、うまくいかなくなったしまったんです…」
宇野さんが続けて話した内容は次のようなことでした。
今までなんでもそつなくこなしてきた宇野さんでしたが、子どもだけは別でした。
ダダはこねるし、片付けても片づけてもすぐ散らかし、ご飯を食べれば服までドロドロ、
いつものように家事を片付けようとしても、なかなか思う通りには進みません。
つい先日も、着替えさせて朝ごはんを食べさせようとしたとたん、コップをひっくり返して朝食を台無しにしてしまい、カッとなってしまった、と言います。
そうなると、何かがぷつりと切れたように怒りをぶつけてしまい、子どもを叩いてしまうというのです。
最近は子どもがお母さんの顔色をうかがうようになり、そんな態度にさえカッとなるといいます。
怒りにまかせて叩いてしまうと、後で必ずとても後悔し落ち込むのですが、また繰り返してしまう…そう言ってしばらくの間、彼女は泣き続けました。
彼女が少し落ち着いたのを見計らって、一さんはたずねました。
「宇野さん、あそこにコップをひっくり返してご飯を台無しにしてしまったあなたのお子さんを叱りつけているあなたがいます。どう見えますか。精神的、心理的な年齢は何歳くらいに見えますか?」
うつむいて涙を拭っていた宇野さんは、ハッとした顔をして一さんの目線の先を見つめました。そしてしばらく見つめた後、目線を少し下げて言ったのです。
「…ああ、同じくらいです、息子と変わらないくらいの小さな女の子に見えます…」
そう言って宇野さんはまたうつむき、声を殺して涙を流しました。
そんな彼女に一さんは言いました。
「腹が立って当たり前ですよ。あなたは子どもさんに接するとき、あまり変わらないくらいの精神年齢に引き戻されてしまっているのだから…5歳の子が5歳の子の面倒みてるようなものです。これでは自分の意見の言い合いっこになってしまうのは当然でしょう?
あなたの中の小さなあなたは勉強やおけいこ事を上手にこなして、ご両親や周りの大人たちから『いい子』と認めてもらうことで安心を感じてきたのに、子どもさんがそうすることを邪魔しているように思えて腹が立ってくるのですよ。
『せっかく私がお利口にしてがんばっているのに、あなたのせいで台無し!』『私だってやりたいことあるのに!』って小さい子どもが言っているようなものです。
親御さんの関心を得たくて、周りの大人を喜ばせようとなんでも精一杯がんばっている、それを邪魔する子どもに腹を立てている…そんな小さな自分があなたの中にいることを受け入れてあげて下さい。
お子さんと一緒に、小さな自分も育ててあげなくてはね。」
じっと聞いていた宇野さんは小さくうなづくと、顔を上げ一さんに言いました。
「今、やっとなんで歯止めが利かないほど怒ってしまうのか、わかったような気がします。…私は子どものままで子どもに接していたんですね…未だに両親や姑(しゅうとめ)舅(しゅうと)、主人によく思われるようにということばかり気にかけて。子どものことより子どもがすることで自分がどう言われるかばかり気にしてたように思います。可哀そうなことをしました…」
そう言ってまた、目に涙を浮かべている宇野さんに、一さんは言いました。
「大丈夫、今からだって十分取り戻せますよ。お子さんに、毎日しっかり目を見て触れて、話してあげてください。ぎゅーっと抱きしめてあげたり、頭をなでたり…何も言わなくてもいいんですよ。」
宇野さんがうなづきます。
「それから、腹が立ってきた時には、いったん目をつぶって、怒っている小さな自分を意識してみるのもいい方法ですよ。そして自分はもう自律した一人の大人なんだということを思い出して、口に出して言ってごらん。きっと少しづつ怒り散らしている子どものあなたが客観的に見えてくるはずですよ。そうすると、客観的な大人の自分が育ってきて、今まで見えなかったことが見えてきたり、よく見られようとして無理にしていたことに気付いてもっと自然にみんなと接することができるようになってくるから。あせらないで、自分を責めないで、ゆっくりとね。」
カウンセリング後、お見送りに出て来た青木さんに宇野さんが言いました。
「先日はありがとうございました。あの時、『自分を責めてもなにもいいことはない』と言っていただいて目が覚めたような気持ちでした…あの一言で、ここに来る決心ができたんです。」
青木さんは自分の一言が宇野さん届いたんだなあ…とうれしく思いながらも、師匠の言葉を思い出して言いました。
『セラピストが人を治すんじゃない、僕たちは人が変わっていくお手伝いしかできないんだよ。それぞれの人が自分で決断して選んで変わっていくんだ。』
「私の言葉はきっかけにすぎません。宇野さんがご自身で決めて来られたのですよ。」
宇野さんはハッとした顔をしてうなずきました。
「…そうですね、私が自分をここまで連れてきたのですね。子どもとのことも、少しずつやっていけると思います。」
そう言って帰っていく宇野さんの後姿を見ながら、一さんは青木さんの頭を手のひらでクシャっとかき回すと『よく、やったね。』と言いました。
え?と青木さんが一さんの方に顔を向けると、そこには満足そうな師匠の顔がありました。
「僕たちはお手伝い役。よく覚えていてくれたね。」
「はい!」元気よく答える青木さんにもう一度うなづくと、一さんは言いました。
「さあ、今日もいい仕事したね。そろそろ片付けて帰ろうか?」