毎朝の恒例行事、仁実(ひとみ)のお着替えが始まりました。
「ねえ、パパ今日はスカートとパンツどっちがいい?」から始まり、「寒くなって来たから、ウールのチェックのスカートかなあ…」とつぶやく仁実に『早く決まりますように!』と祈りをこめて「そうそう、あれとっても似合うよ!」と力説する一(はじめ)さん。
怪訝な顔をしながらも、仁実はチェックのスカートに合うTシャツを着て、パーカーをはおり、鏡の前で前から後ろからとチェックに余念がありません。
ハイソックスか、タイツか…小物のコーディネイトも気が抜けません。
『決まったか!?』と固唾をのむ一さんの願いもむなしく、次は髪のセットです。
「パパ、ポニーテールがいい?編み込みがいい?」
来たぞ…とばかりにキッチンを見ると、早苗(さなえ)さんが「編み込みはやめてー!今忙しいの!!」と目で一さんに訴えます。
『さて、どうやって仁実を納得させるかな??』
ちらっと鏡の前の仁実に視線を走らせ…いいものが目入りました!
「仁実、そのチェックのカチューシャ、スカートとぴったり!!」
案の定、カチューシャは仁実のお眼鏡にかなったようで、「それいいね!パパにもコーディネートが分かってきたね!」と大喜びです。
毎朝、大変な反面、自分の性別を目一杯エンジョイしているなあと関心と安堵を感じずにはいられません。
世の中には、自分の性別が受け入れられなくて苦しんでいる人がたくさんいるのだから…
一さんは、数日前にたずねて来た一人の大学生のことを思い浮かべていました。
ひと月ほど前のことでした。育児ノイローゼでカウンセリングを受けていた女性から一さんは相談を受けました。
ずいぶん状態が良くなってきた彼女が言うには、来春就職も決まっている弟が自殺未遂をしたというのです。小さい頃から成績優秀で、スポーツもできて、明るいクラスの人気者だったという弟さんで、大学も一流大学、就職は地元でも大きな会社だというのです。
「分かりました、弟さんが来たいと言われるならいいですよ。」
そして数日前、その弟さんから連絡が入ったのでした。
「上田雅之(うえだまさゆき)です。」それだけ言うと彼はうつむき加減に顔を伏せたまま、ソファにじっと座っています。
「まさゆきくん、だね。来年の春大学卒業で、地元の会社に就職も決まったって聞いてたけど、何かあったのかい?」そう尋ねる一さんの言葉にも、なかなか言葉が出ません。
「前途洋々に見える君がそれほど思いつめるくらいだから、きっと大変なことだったんだろうね。話してみたらまた違った解決方法が見つかるかもしれないよ。」
本当は誰かに聞いてもらいたかったのでしょう。意を決して話し始めると雅之さんは一気にすべてを話してくれました。
「実は俺、女の人に興味がないんです。小さい頃からずっと。俺は長男だし親の期待も大きいし、小さい頃から勉強もスポーツもがんばってきました。大学もいいところに入ったし、就職も決まった…家じゃ次は嫁さんだって大騒ぎで。でも俺はその期待にだけは添うことができない…あんなに喜んでいる親父やおふくろを悲しませることは俺にはできません。もう、死ぬしかこの苦しみから逃れられない…」
窓の外は、雲一つない日本晴れ。
「雅之くん、ついておいで。」そう言うと一さんはソファから立ち上がり、奥に向かって「青木さん出かけてくるね。」と声をかけ、事務所から出て行ってしまいました。
雅之さんは慌てて後を追い、走って追いつくとしばらく二人で並んで歩きました。
一さんは自宅の前に来ると、「ここで待ってて。」と言い残しガレージに入って行き、
愛車のランクルをガレージから出すと、助手席の窓を開け、「乗って!」と雅之さんに向かって声をかけました。
雅之さんはわけも分からぬまま、車中の人となっていました。
「雅之くんは山好き?」
突然訪ねられ、「はあ、ええ、まあ…」と雅之さんがあいまいに答えるそばから、一さんが言いました。
「この近くに竜田(たつだ)山っていう、市内を一望できる小さな山があるんだ。20~30分もあれば一番上の展望所まで行けるくらいの山なんだけど町の近くと思えないくらい緑がきれいで、散歩にはもってこいなんだ。今日は天気もいいし、歩くと気分がいいと思うよ。」そう言うと一気にアクセルを踏み込みます。
「さあ、着いたよ。」有無を言わさずハイキングに連れてこられた雅之さんは、言われるがままに車から降りて、先をすたすたと歩き遊歩道に入っていく一さんの後を追います。
「あの…鈴木さん、一体何を…」
雅之さんの戸惑いを知ってか知らずか楽しそうに歩いて行く一さん。
「僕、ここが大好きで、よく一人でゆっくりとしに来ることがあるんだ。雅之くんは最近悩みで頭がいっぱいで、きれいな景色を見るなんてこと考えもしなかっただろう?」
頭上は、茂った木々の葉が落とす木陰でひんやりと心地よく、歩いても汗がにじむこともない、さわやかな気候の中、二人はしばらく無言で歩いて行きました。
ふっと、梢の重なりが切れ、光のまぶしさに目を細めた一瞬あと、雅之さんは目を見張ってつぶやきました。
「なんてきれいな景色だろう…」
一さんは『しめた!!』と思いました。
そこからは、緑の茂みの向こうの街がきれいに見渡すことができ、さらにその向こうには遠くの山並みが青く連なって見えています。
紅葉交じりの山の緑に、青い山の稜線。青く澄み渡った空とともに心が洗われるような、そんな眺めでした。
「そうでしょう?僕のお気に入りの場所なんです、ここは。さあ、雅之くん、今日はここでカウンセリングするよ。今ここに鏡張りの四畳半ほどの部屋があると思って。君は今からその部屋の中で服をすべて脱いで立っていると想像してください。そこに写っている君の姿を見て思ったことを思いつくだけ言ってみて。」
そう言われた雅之さんは、じっと目をつぶって鏡張りの部屋にいる自分の姿を思い浮かべました。しばらくした時、雅之さんは目を開けてこういったのです。
「色が黒くて、やせっぽちで見苦しいです。あばらも見えてる割にはお腹は出てて恥ずかしいです。背は高いけど猫背だし…顔にはニキビの跡があって肌が汚いし…
髪型もなんかもいまいちだし…なんだか冴えないなあって印象です。」
その答えを聞いた一さんはこう言いました。
「あなたが今自分を見ているその目で、もう一度さっきの景色を見てごらん。」
雅之さんはあっと声を上げて言いました。
「えっ!?全然きれいじゃない!?」
そうです、さっきまでとてもきれいに見えていた景色がまるでモノクロにでもなったかのように全くきれいに感じられないのです。雅之さんは驚いて一さんを振り返りました。
一さんはにっこり笑うとこういったのです。
「雅之くん、それが心の目だよ。君の心の目には何でも灰色にみえるめがねがかかっているようだね。」
呆然と立ち尽くす雅之さんにベンチに座るよう促すと、一さんは続けました。
「君は自分がホモセクシャルだというだけでまるで生きている資格がないように思いこんでしまったんだね。でも、考えてごらん。誰にも迷惑はかけていないし、法に触れるわけでもない。ただ、好みが人と違うだけ。
さあ、もう一度、さっき、わぁ景色がきれいだと声を上げた時のあの目で、もう一度、鏡の中の自分を見つめなおしてごらん。」
雅之さんはもう一度目をつぶりました。かなり長い時間、彼は目をつぶってじっとしていました。次第にその目に涙が溢れて来て、目を開くと彼はきっぱりと顔をあげてこう言ったのです。
「鈴木さん、僕はまだ若いしとても健康です。可能性も時間もいっぱいあります。人とコミュニケーションをとるのも好きだし、みんなをまとめてリーダーシップを取るのも得意です。勉強するのも嫌いじゃないし、これでも僕、なかなかスポーツマンなんですよ!
そうか…鈴木さん、分かりました。こういうことだったんですね…
僕にも生きている価値はあったんですね。自分のいいところなんて、もう何年も見つめたことなんかありませんでした。一つの負い目のためにどんなに視野が狭くなっていたことか…今思えばなんて狭い世界で悩んでいたんだろうって思います。
言ったら怒られるかもしれませんが、人に話したってどうにもならない、カウンセリングに行ったって解決なんかしない、ここに来るまでそう思っていました。
でも、姉の顔があまりに真剣で、僕のことを心底心配しているのが分かったので、死ぬ前に姉の顔を立ててやろうかってくらいの気持ちだったんです。ここに来るまでは。まさかこんな気持ちになれるとは、夢にも思っていませんでした…」
次々と溢れてくる涙を拭おうともしないで、雅之さんは展望所からの景色を眺める横で、
一さんもまた、晴れやかな気持ちでお気に入りの景色を一緒に眺めていました。
これで彼は自殺することはないだろう…暖かなものを胸に抱えているような、そんなほっとした気持をゆっくりと味わいながら。
刻々と光が色合いを変えて、黄昏時(たそがれどき)の柔らかな光が降りかかるまで、二人はそこに立ちつくしていました。
すっかり日が落ちる頃、二人は事務所にたどり着きました。
ドアを開けたとたん、心配気な顔をした青木さんが奥の事務室から出てきて「お帰りなさい。」迎えてくれました。しかし、二人の表情を見るとほっとした顔になり「コーヒー淹れましょうか…」と奥の給湯室に向かって小走りに消えていきました。
温かい湯気の立つコーヒーで一息つき、一さんと雅之さんはしばらくソファにもたれかかっていました。そしてどちらからともなく目を合わせると「さあ、そろそろ帰ろうか。」と
腰を上げました。
事務所のドアに手をかけて、帰ろうとする雅之さんの背中に一さんは声をかけました。
「雅之くん、今日が君の第二の誕生日だよ。おめでとう。」そう話しかけて差し出した右手を両手でしっかり握ると雅之さんは言いました。
「はい、一回死んだと思ったら、なんでもできます。明日からが楽しみです。」
その顔には自信があふれているようでした。
雅之さんを見送った後、片づけをしている青木さんに向かって一さんは言いました。
「今日はすっかり遅くなってしまってすまなかったね。お詫びにおごってあげるからこれから「奴(やっこ)」一緒にどう?」
「あ!いいですねぇ。熱燗がおいしい季節ですもんね!」喜々として返事をする青木さんに、一さんがため息交じりに言います。
「青木さん、二つ返事なのはうれしいけど、たまには見栄張って「デートですから…」くらい言わなくっちゃ!まだまだ食い気…いや飲み気?が先だなんて…修行が足りん!」
「あー、先生!なんですか、誘っておいてその言い草は!!」
「あははは…ごめんごめん、確かに誘っておいてそりゃないよね!」
二人は笑いながら事務所を後にすると、奴(やっこ)に向かって歩き出しました。
「今回初めて、ホモセクシャルの人にかかわったけど、ホントに普通の人と変わらないよね…まあ、もとからあんまり偏見はなかったけど。ホモとゲイの違いとか、いろんなこと教えてもらって、すっごくためになったよ。いや、奥が深いなあ…」熱く語る一さんを横目に、(感心するのは、そこですか…)青木さんはため息をつきながら、思いました。
(それより、カウンセリングの経過のほうが聞きたいのになあ…うちの先生ってやっぱりちょっとズレてる?天才と何とかって紙一重ってこういうことなのかしら??)
自分の師匠に一抹の不安(!?)を覚えながら、(ま、人間性は折り紙つきだから…)と考え直し、奴(やっこ)ののれんをくぐる青木さんでした。