第3話 がんを受け入れた女性

がんを受け入れた女性 ハジメさんの人生カルテ

ぽかぽかと南側の窓からの日差しが暖かい、ある晴れた秋の昼下がりのことでした。カウンセリングの合間にコーヒーブレイクを楽しんでいたハジメさんのもとに一本の電話がかかってきました。

「はい、鈴木カウンセリングルームです。」応対した青木さんが、受話器の通話口を手のひらで覆い、ハジメさんを振り返るといいました。

「先生、以前ご相談にみえた佐々木様からお電話です。気になるお友達がいらっしゃるみたいで…」

ハジメさんは受話器を受け取り、「もしもし?」と話しかけました。

佐々木さんからの電話は、気にかかっているお友達のことでした。以前一緒に仕事をしていた看護師仲間の女性が、退職後がんを患い、ふさぎこんでお見舞いに行っても泣いてばかりいるというのです。彼女は高齢のお母さんと二人暮らしで、お母さんに家事や身の回りのことを手伝ってもらいながら自宅で療養中だというのです。

「鈴木さん、何とか彼女を救ってあげられないでしょうか?」

そう切り出した佐々木さんにハジメさんは言いました。

「私も前からターミナル(終末期)の方にかかわってみたいと思っていました。何かのお役にたてるならお会いしてみたいと思います。」

さっそく今週末、佐々木さんが一緒に家に連れて行ってくれることになり、こうやってハジメさんと雅子さんは出会うことになりました。


土曜日の昼下がり、ハジメさんは佐々木さんと待ち合わせて隣町に住む伊藤雅子さんを訪ねることになりました。

町中から離れた郊外の古くからの住宅地の一角に伊藤さんの家はありました。きれいに手入れされた庭の飛び石を渡り、格子の引き戸を開けひんやりとした玄関に入ると佐々木さんが声をかけました。

「伊藤さん。私です、澄子です。具合はどう?」 

奥に向かって声をかけると腰の曲がった、雅子さんの母親らしきおばあちゃんが前掛けで手を拭きながら出てきて、上がりかまちに膝をつくとスリッパを出しながら言いました。

「いつもすみませんね、佐々木さん。雅子は奥にいますよ。さあどうぞ。」

佐々木さんはおばあちゃんににっこりと笑いかけると、言いました。

「お電話でお話していた鈴木さんです。きっと、雅子の気持ちをほぐすお手伝いをしてくださいますよ。」

おばあちゃんはハジメさんに向きなおり頭をぺこりと下げるといいました。

「どうか、あの子を救ってやってくださいまし。」


ひんやりとした廊下の突き当たりに雅子さんの部屋がありました。庭に面した明るい南向きの部屋に布団が敷かれ、肩からカーディガンを羽織った女性が庭を眺めています。

「雅子、具合はどう?今日はお客様連れて来たわよ。」

「…澄子、来てくれたのね。」雅子さんが振り向きます。細面の品のいい顔立ちで透けるように色が白く50代半ばとは思われない女性でした。

「せっかく来てくれたのに、気分がすぐれなくて…ごめんなさい。」ちらりとハジメさんに視線を移すと、もう眼には涙が浮かんでいます。

ハジメさんはぺこりと会釈するといいました。

「はじめまして、鈴木ハジメです。佐々木さんからあなたががんで、あと数カ月と言われていると伺いましたが、どこのがんなのですか?」

みんなが腫れものを扱うように接している雅子さんに、ハジメさんは単刀直入に尋ねました。

「膵臓です。あと3カ月と言われてもう6カ月になります。」

か細い声でそう答える、雅子さんにハジメさんはにっこりほほ笑むとこう言いました。

「私も末期なのですよ。」

見るからに健康そうなハジメさんからそんな言葉が出るとは予想していなかったのでしょう。佐々木さんと雅子さんは異口同音に言いました。「どこか悪いのですか?」

するとハジメさんはこう言ったのです。

「人はみんな末期状態ですよ。明日の命を保証されている人は誰もいません。私も今晩、心臓発作で死んでしまうかもしれないし、佐々木さんだって帰りに交通事故で死んでしまうかも知れない。

年が多い人が先に死ぬとは限らないし、病気を持っていない人が事故で先に死んでしまうことだってある。誰にも何の保証もないのですよ。

だから私は、今ここをいつだって大切にしたいと思っています。限りのある時間を、悲しみや恨みに明け暮れて浪費していくのも、充実感を持ちながら幸せに過ごすのも自分次第です。

雅子さんはどっちがいいですか?」

ハジメさんの話に雅子さんも、澄子さんもあっけにとられた顔をしていましたが、そのお互いの顔を見たと同時に噴き出していました。

「なあにその顔。ハトが豆鉄砲食らったみたい。」と雅子さんが言えば、負けずに澄子さんも「あなたこそ!口をぽかーんと開けたままだったわよ。」とやり返します。

思わず笑いが出て和やかな雰囲気になり、お茶とお菓子を持ってきたおばあちゃんは「まあ、まあ!」と久しぶりに笑顔を見せた雅子さんに驚きながらもうれしそうに微笑んでいました。

ひとしきり笑った雅子さんはハジメさんを向き直るといいました。

「もう二度と笑うことなんてないと思っていました。年老いた母親を残して、苦しんで、悲しんで、死んで行くだけ、そう思っていました。私も、まだ幸せを感じて生きてもいいのですね…」

「そうですよ。体は自由にならなくても、心は、頭の中はいくらでも好きなことができるんです。小さな頃の自分に会いに行ったり、できなかったことをしている自分を想像したり…とっても楽しいですよ。そうして頭の中を自分で楽しくする方法知りたくないですか?ファンタジーワークっていうんですよ。」


こうして、はじめさんは雅子さんのカウンセリングを自宅でするようになったのです。

雅子さんは笑っていつもより血色のよくなった顔をハジメさんに向けるといいました。

「鈴木さん、どうやったらいいんですか?」

「まず、7歳より小さい時のことを思い出してください。いちばん楽しかった思い出は何ですか?」

雅子さんはしばらく考えていましたが、不意にくすっと笑うといいました。

「幼稚園の頃、遠足に行った河原でお友達と並んでお弁当を食べたのが楽しかった…」

ハジメさんはにっこりとして言いました。

「じゃあ、今からその子に会いに行きますよ。目を閉じてその場面を思い浮かべてください。後ろからそっと近づいて、小さなあなたの肩をやさしくポンポンってたたいてください。小さなあなたが振り返ったら、自己紹介してくださいね。『こんにちは、私が大人になったあなたよ。あなたが元気に女の子として生まれてきてくれたおかげで、50数年の人生を歩んでこれたのよ。いろんなことがあって、大変な時もあったけど生き続けてきてくれてありがとう。』って言って、いろんなことお話してみてください。」

雅子さんは目を閉じ、しばらくすると微笑んでいました。

しばらくして目をあけると、こう言ったのです。

「ああ、こんな楽しいこと久しぶり…」

しばらく経って雅子さんが再び目をあけると、ハジメさんは「初恋はいつですか?」とたずねました。

雅子さんはほほを上気させながら「えーっと、中2だったかしら?恥ずかしくって一言も話すことができなくて。」と答えました。

「じゃあ、その初恋に人に会いに行きましょう!」ハジメさんが言うと、雅子さんはもう一度目をつぶりました。にこにことする雅子さんにハジメさんが言います。

「あなたが彼と交渉して、中学2年のあなたとお話しさせてあげたら?」

イメージの中で雅子さんは、初恋の彼を呼び止め「あの子と少しお話してあげて。」と頼み、二人が並んでベンチに腰掛け、話すのを遠くから見守っていました。

恥ずかしそうに、うつむきながらぽつりぽつりと話す二人の様子があまりにもかわいらしくて、ずっと見ていたかった…目を開けた雅子さんはそう言いました。

「なんて楽しくて、幸せなんでしょう…こんな穏やかな気持ちになれる日がまた来るなんて…」涙ぐむ雅子さんにハジメさんは言いました。

「そうですよ。体は自由が利かなくても、心はいつでも自由です。今日一日を悔みながら恨みつらみを言って過ごすのも、楽しかったころを思い浮かべながら幸せな気持ちで過ごすのも、あなた次第ですよ。あなたの頭はあなたにしか使えないいのだから。

一日が終わる時に自分の中のいちばんやさしい自分になって自分をほめてください。

『今日も一日生きていてくれてありがとう。』ってね。」

一週間後にまた訪ねる約束をして、ハジメさんと佐々木さんは家路に着きました。


帰って行く道すがら、佐々木さんがハジメさんに話しかけてきました。

「生きているってなんて贅沢なことでしょうね。それを忘れて、不満を言っては『もっと、もっと、足りない、足りない。』と得ることばかり考えていた自分が恥ずかしくなりました…今日はありがとう、鈴木さん。」

佐々木さんはそう言うと、自宅方面に向かうバス停に足を向け、何度も振り返っては会釈し、帰って行きました。

そんな佐々木さんを見えなくなるまで見送ったハジメさんは、自らもバス停に向かいました。

みんなが待っている、我が家へと…


家に帰ると、末っ子の仁実と早苗さんが夕食のテーブルについてテレビを眺めながらハジメさん達の帰りを待っていました。

「ただいまぁ」ハジメさんが声をかけると「お帰り!」と二人が答えます。

夕食を温めなおしにキッチンに立った早苗さんの代わりに、仁実がハジメさんに駆け寄ると「ねえ、聞いてパパ!今日学校でね…」と話しかけてきます。そんな何気ない場面にさえ幸せを感じます。

「仁実、今日も一日元気に生きててくれてありがとう!」懸命に学校での出来事を話し続ける仁実のことが、何ともかわいく、居てくれるだけでありがたくて、ハジメさんは思わず、ぎゅーっと抱きしめていました。

「あーっ!いいんだぁ仁実だけ。」背後に視線を感じると、そこには拗ねたふりをして楽しむ早苗さんと、バイトを終えて帰って来た瑠実が立っていました。その時です。

「ご飯、ごはんー!!」とただいまの代わりに叫びながら一輝が玄関のドアを開ける気配がしたのです。あまりの大声にみんなで吹き出すと、まだ泥んこの顔をした一輝がリビングの入り口から「??」と顔をのぞかせ、いっそうみんなの爆笑に拍車をかけます。

鈴木家のにぎやかな夕食の時間が始まりました。


一週間後、ハジメさんは雅子さんの家を訪ねていました。

青白かった顔に血の気が戻り、表情もずいぶん穏やかになった雅子さんが出迎えてくれて言いました。

「あれから、いつの頃の自分に会いに行こうかっていつも考えているんです。それが楽しくって…」

そう話す雅子さんはまるで新しいおもちゃをもらった子どものようでした。わくわくして、目が輝き、満ち足りて…。

安心感が得られるようになったためか、症状まで落ち着いてきたようでした。

「最近は母の手伝いも少しできるようになったんですよ。」そう話す雅子さんとうれしそうなおばあちゃん。

「よかった。」ハジメさんがそう思った矢先でした。

数日後、佐々木さんから雅子さんが入院することになったと連絡があったのです。

しかし、症状が悪化しての入院ではなく、介護してくれていたおばあちゃんが腰を痛めて自宅療養が難しくなり、しばらくおばあちゃんと一緒に入院する、そう聞いてハジメさんはホッとしました。

「病院にお見舞いに行きます、と伝えてください。」そう言ってハジメさんは電話を切りました。


数日後、カウンセリングの空き時間にハジメさんは雅子さんの病院を訪ねてみることにしました。

佐々木さんに聞いた隣町の病院の受付でたずねるとすぐ病室は分かりました。

エレベーターで入院病棟に上がると、昼食のトレイを配膳車に戻している雅子さんに出会いました。

「あっ!鈴木さん。来てくださったんですね!」嬉しそうな雅子さんの声が、自宅にいた時より元気になっていることに驚きながら、ハジメさんは言いました。

「雅子さん、入院患者さんじゃないみたいだね。」

「はい、周りがおばあちゃんばかりで私が一番若いものだから、お膳を下げたり、お使いしてあげたりしているうちに、何だかしっかりしなきゃって思って。」誰かの役に立っていることがうれしい、そんな顔をして雅子さんは答えました。

「どこに居てもファンタジーワークはいつでもできるし、最近は周りの人にも教えてあげたんですよ。症状が落ち着いてきた人は、一日が結構長くって時間を持て余してしまうから、ファンタジーワークをしていると楽しいし時間が早く過ぎて助かるって感謝されちゃいました。」

明るく話す雅子さんを見ながらハジメさんは感心していました。頭の中を自由にする方法をここまで自分のものにして、それが病気の症状まで抑えている、心と体は思っていたよりもさらに密接に影響し合っているんだ…約10年近くの経験の中で頭の中に蓄積し組み立てられた理論がまた一歩進んだ瞬間でした。

ハジメさんは今、人の持っている潜在能力の素晴らしさを改めて感じていたのです。

その後も二人のセッションは続きました。会う度、雅子さんの頭の中はどんどん自由になっていくのが手に取るように分かりました。しかし、逆に体の状態は徐々に進行し、最近は痛みも出てきているようでした。

「雅子さん、なぜ、痛み止めを使わないの?」ある日ハジメさんは不思議に思い尋ねてみました。するとこんな返事が返ってきたのです。

「痛み止めを使うと頭がぼーっとするんです。せっかくいろんなことが自由に想像できるようになって楽しいのに、ぼっーとしてしまうのがもったいなくって…」

「でも、痛みが出てくると怖くないですか?」

「いいえ、今の私にとっては自由がなくなる方が怖いです。」

その、きっぱりと潔い雅子さんの答えに、ハジメさんは心を揺さぶられる思いでした。

「強くなったね、雅子さん」そう言いながら、背中をなでた時、彼女のほおを涙が一筋流れ落ちました。

今できる精一杯のことは、黙って背中をさすりながら、悲しみを共有すること、ただそれだけでした。


「今の彼女には、話を聞いてあげて気持ちを分かち合ってあげることしかできないんだ。

後は彼女が自分で、頭の中をポジティブに保てるように祈るだけ…

セラピストだって何でも治してあげられるスーパーマンじゃない…逆にいろんな人にかかわればかかわるほど、いかに自分にしてあげることができることが少ないか、思い知らされるよ。セラピーでみんなを治してあげたいって思って来たけど、そんなの思い上がりだった。

僕に人を変える力なんかない。僕に出来ることは、みんなの力を信じて、ひたすら待つことだけ。

いくら方法を教えても、話をしても、するかしないか、変わるか変わらないか、それを選べるのはその人自身だけだから。

でも、人間ってすごいよね。余命を宣告された人でも、心はどれだけでも自由になれる。逆に先がいくらでもあるって思っているぼくたちの方が、不平や不満を言って、心を自由じゃなくしてるのかもしれないな…

幸せって、なれるものじゃなくて感じるものなんだなあって最近ホントに思うよ。

はたから見て恵まれているように見えたって、ちっとも幸せを感じていない人もいるし、大変そうに見えても、すごく幸せに暮らしている人もいる。

環境とか、財産とか、地位とか、それだけで必ず幸せになれるものなんて何にもないんだよね。それを得て、どう感じるか…人の心って入っていけばいくほどホント奥が深いよ。」

長い、長いハジメさんの思いのつまった話を、早苗さんはただ黙って聞いていました。

(セラピストだって一人の人間なんだもん、悩むことも迷うこともあるわよね…私に話しながらきっといろんな思いを自分なりに片付けているのね…)


おばあちゃんの休養を兼ねて入院した病院から、雅子さんだけは退院できずに月日が過ぎていきました。

あわただしい年の瀬から、年が改まっても、雅子さんの症状は進む一方でした。

食事が思うようにはいらなくなった雅子さんを心配したおばあちゃんは、好物の金時豆を煮たり、手造りのおまんじゅうをふかしたりしては、食べさせようとしますが、なかなかのどを通りません。

「鈴木さん、雅子がご飯を食べないんです…鈴木さんからも食べるよう励ましてやってはくださいませんか?」

そう言うおばあちゃんにハジメさんは言いました。

「おばあちゃん、これ以上望んだら酷ですよ。雅子さん今まで相当頑張ってくれたじゃないですか。」

おばあちゃんははっとした顔をして、しばらく何も言えませんでした。

「…そうですよね、これ以上望んだら罰があたりますね…」

そう言って、目を伏せたおばあちゃんの肩がかすかに震えるのを、複雑な思いでハジメさんは見守るしかありませんでした。

(年老いた、おばあちゃん一人の気持ちすら、楽にしてあげることはできないのか…)

西の窓から差し込んだ夕日が、二人分の影を人気のない病院の廊下に長く、長く刻んでも、二人はそこから動くことができませんでした。

節分を過ぎ、寒い中にもどこか春の気配を感じる季節がめぐって来ても、雅子さんの病状は一向に快方には向かわず、ベットに休んだまま話をすることが多くなりました。

背中が痛むので、うつぶせで休むことが多くなっても痛み止めだけは最小限に留め、頭の中での自由を楽しむことだけはやめようとしませんでした。

この日もうつぶせになった状態で少し話をした後、体力を消耗しないように、と早めに話を切り上げたハジメさんでしたが、病室を出る時ふと振り返ると、うつぶせになったまま手を振って見送ってくれる雅子さんが目に入ったのです。

普段そんなことをする人ではなかったのですが、その時は何となく手を振り返し、病院を出て駐車場に置いておいた車まで戻ってきたハジメさんは、なぜか後から後から溢れてくる涙をこらえることができませんでした。

運転席に座っても、しばらくは発進できないほど涙が溢れて来て、「もうこれで雅子さんには会えないのかもしれない。」そんな思いが頭をよぎりました。

「いろんな時代の自分に会いに行っている時だけは、辛いことを忘れられるんです。先のことを考えずにいられるんです…今、私は本当に幸せです。」

まだ、横になった状態でも、ずいぶん話ができた頃、雅子さんがそんなことを言ったことがありました。過去にとらわれすぎず、未来に振り回されず、しっかりと「今ここ」を見据えている強さ。

最近、ハジメさんにはカウンセリングをしている、という感覚はほとんどなくなっていました。

一人の女性が、自分の置かれた境遇を受け入れて、その中でもしなやかに生きていくプロセスを見せてもらっている、そんな感覚を覚えていたのです。

帰りがけに手を振ってくれた仕草、あれは雅子さんのサヨナラだったのだろうか…

そう思いながらハジメさんは車を走らせていました。

自宅に戻っても無口なハジメさんに、家族のみんなは事情を察したようでそっとしておいてくれました。そんな家族の気遣いをありがたく思いながら、書斎にこもったハジメさんは、ひたすら愛犬の頭をなでながら物思いにふけっていました。

二朗くんも何かを察したようで、時折励ますようにハジメさんの顔をぺろり、と舐めると後はひたすら寄り添っていてくれるのでした。

家族と愛犬の存在のありがたさが身にしみる夜でした。


数日後、一本の電話が事務所にかかってきました。かけてきたのは佐々木さんでした。

三日前に雅子さんが逝った、そう言い佐々木さんは雅子さんの最期の様子を話してくれました。

おばあちゃんと佐々木さんたち数人のお友達に見守られながら穏やかな最期だった、といいます。

薄れる意識の中、大きな息をした雅子さんが最後に「ありがとう」と声にならない声で言ってくれたこと、その後おばあちゃんが涙をこらえながら、雅子さんに、

「雅子、もういいよ、逝っていいよ…」と声をかけると、雅子さんの口元が少しほころんだように見え、そのまま息を引き取ったこと…

話しながら、また涙が溢れて来たのか、涙声になりながら佐々木さんは話し終えました。

最後に「人の心に可能性の限界はないんですね、あんなにふさぎこんでいた雅子がこんなに穏やかな最期を見せてくれるなんて…鈴木さん、ありがとう。」という言葉を残して。

受話器を置いたとき、ハジメさんはまるで長い夢から覚めたような、そんな感覚を覚えていました。

雅子さん親子に残された時間を少しでも有意義で充実したものにする手助けができたのかもしれない…どこかほっとして肩の荷を下ろしたような気がしました。

ずいぶん久しぶりに、自宅とは反対の「奴」に足が向いていました。

雅子さんの見せてくれた人の心の可能性のすばらしさに祝杯をあげたい、そんな気持ちでした。

見なれた引き戸の前に立つと、のれんをくぐりながら「親父さん、祝杯あげにきたよ!」

と声をかけるハジメさんでした。

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