「私、人の中にいるとなんだか落ち着かないんです。せっかく大きな会社に入ったんだからたくさん友達作ればいいのに、とか言われたりもするし、彼氏も見つけたほうがいいかなあって思ったりもするし、めんどくさがらず飲み会とか誘われたら行った方がいいかなぁって思うこともあるんですけど、どっちかというとめんどくさいなあって思っちゃうタイプなんですよねえ…。皆すごく楽しそうに飲み会に日取り決めたりしてるのに、私って変り者なのかなあ?どう思います、鈴木さん?」
そういいながら、和恵(かずえ)さんはあきらめたような表情をしてかすかに笑いました。
「僕も、一人で過ごしている時の方が落ち着くなあって思いますよ。にぎやかなのがいい人と、一人の方が落ち着く人とそれぞれ個性だから、それを受け入れてあげてもいいんじゃないですか?人の中にいることが苦痛だっていうのであれば話は別だけどね。」
一(はじめ)さんの言葉にちょっとほっとしたような顔をして和恵さんは言いました。
「一人が落ちちくって思うこと、鈴木さんでもあるんですね。そう思うことがネガティブなことじゃないって思うと、ちょっと楽になります…誰でも人といる方が楽しいって思うものだって思ってたから。やっぱり、育った環境の影響が大きいのでしょうかね…。」
和恵さんは3世代の大家族に家に育ちました。とても厳しい祖父母と両親がいつも衝突し、いさかいが起こる中で、家族というものに温かい集団という思いよりは、家族の中に属することそのものに苦痛を感じて大きくなりました。
和恵さんは人の中にいることに緊張を感じ、なかなかなじめない自分を責めていたのです。
「小さい時の話を聞かせてもらったけど、あなたにとっておうち自体が安心や安全を感じることができない場所だったようだね…子どもが生まれて初めて属する集団は家族だから、そこが和やかで居心地のいい場所だと感じて育つと、大きくなって人の中に入っていくことに抵抗を感じることがほとんどないし、逆にいさかいが絶えず起こっていたら、集団に入ること自体が安全でなく感じられるようになるんだよ。小さい時に家族に対してもった定義がそのまま大きくなってからの人の集団に対しての定義になってしまうんだ。
和恵さんがいさかいのない和やかな家に育っていたらたくさんの人に囲まれていることの方が落ち着く人になったかもしれないね。」
ふーっとため息をつきながら和恵さんは言いました。
「私もそんな家に育ちたかったなあ…いまさら言ってもしょうがないんでしょうけど…。
一人でいるのが落ち着くのも悪いことではないって思えるようにはなりましたけど、やっぱりたくさんの友達がいて、彼もいるほうが、もっと幸せなんだろうなって思いますもん…。私、そういう人には、なれないんでしょうか?」
一人が落ち着くことが悪いことではないと思ってはみたものの、人と深くかかわりを持つことに抵抗がある自分にわだかまりが残っているようで、和恵さんは一さんにたずねました。
「和恵さん、厳しい言い方かもしれないけどあなたは誰か他人のことだけを考えて過ごす時間を持つこと、ある?」
「…?」
一さんの言ったことがよくつかめなかったように、ポカンとした顔をした和恵さんに一さんは噛んで含めるように言いました。
「小さい子どもはね、安心で安全なおうちで育つと自然と周りの人を喜ばそうって気持ちが芽生えてくるんだ。何か見返りを考えてではなくって、純粋に人を喜ばせたい、人のためになりたいっていう気持ちがね。
子どもなりに考えてお花を摘んできてお母さんにあげたり、お父さんに新聞を取ってこようとしたり、おじいちゃんやおばあちゃんの肩を小さなこぶしでトントンと叩いてあげたり、そりゃ、はじめはきちんとなんかできないよ。でも純粋に『喜んでもらいたい』っていう気持ちに対して『すごいね』『えらいね』『ありがとう』って認めてもらうと子どもたちの中に見返りを求めない思いやりの気持ちが育っていく。それが『無償の愛情』、人を思いやる優しさです。
無償の愛情が心の中に根付いている人は、見返りのことなんか考えないで人のことに一生懸命になることやその人のことで頭がいっぱいになって過ごす時間を持つことができるんですよ。それができると自然と人と親密になっていくんです。
和恵さん、あなたは人のことで頭がいっぱいになる時間、なかったよね…?」
ハッとしたような顔をして和恵さんは言いました。
「そうですね…確かにそうかも知れません…。」
そういうと、彼女の眼に見る見る間に涙があふれて来ました。
「誰かのことを本気で好きになったことも、本当はなかったのかも知れません…。いつも、人より自分のこと考えていたのかも…。」
静かに涙を流す和恵さんに、一さんは言いました。
「誰も、そんなこと教えてくれなかったもんね…辛かったね。」
和恵さんの育った家庭が温かで安心できる雰囲気の家庭だったら、人に対して何の抵抗もなく接し、見返りなく人のことを思いやり、自然と無償の愛情を身につけていくことができただろうに…。それがあれば、もっと楽に人と交流して、楽に生きて行けただろうに…。
そう思うと、一さんは和恵さんが不憫(ふびん)でなりませんでした。
「和恵さん、あなたは小さい時に無償の愛情のベースを周りの大人の人たちに作ってもらうことができなかったよね。そのおかげで、人よりもとても苦労したと思う。それはとても残念なことだけど、もう過去は変えられないことも、あなたは分かっているよね。
あなたはもう、一人前の大人になっている。誰かが教えてくれなくても、自分で自分を育てなおすことはできるんだよ。
あなたの中の、小さな傷ついた和恵ちゃんに無償の愛情、これからうんと教えてあげないとね。それが持てれば、あなたはもっと生きやすくなると思うよ。もともと優しい人だから。」
「…ありがとう鈴木さん…。」
そう一言だけいうと、和恵さんはかわいそうだった自分を思ってしばらくの間静かに泣いていました…。
「属することができるっていうことはとてもすごいことなんですね…誰でも一人で生きていける人なんていませんもんね。」
ふっと寒さの緩んだ小春日和の午後、来客の合間のコーヒーブレイク中に、以前訪ねてきたクライアントの話を聞いた青木さんはしみじみと感想をもらしました。
「そうだよ。誰ともかかわらずに生きていくなんて勝者(トラウマにとらわれず自分の意思で自分をコントロールしていける人)の人生にはあり得ないことだからね。
成功も幸せも人とのかかわりとお互いの協力・助け合いがあってこそさ。
成功している人たちは、自分は運がいいっていう人が多いけど、それだけ周りの人と親密なかかわりを持っているからこそ、皆から支えてもらえるってことなんだよ。
小さい頃に家族の中で属することを安全だと学べなかった人は、学校でも会社でも、サークルでも、ありとあらゆる集団の中にいること自体、安全でなくなってしまうんだ。
すると、人の中に入る時に異常に気を遣いすぎたり、逆にトラブルメーカーになってしまったりして、『普通に』集団の中で人とかかわることが分からずにとても苦労している人が多いんだよ。周りから変わった人と思われる人や自分で『私は変わり者だ』って思いこんでいる人も多いね。
もちろん、人は自分をいくらでも変えていけるけど、スタートラインでハンデがある人とそうでない人の差がどれくらいのものか、ここに来る人たちを見ていると分かるだろう?
ごく普通の温かい家庭がどんなに子どもにとって大切か…そこに育つことができなかっただけで、しなくてもよかったはずの苦労をしょい込んでしまったようなものだからね。
でも、過去も他人も変えられないことに気付かないと、親のせいで、育った環境のせいで、社会のせいで、と言っているだけで一生そこからは抜け出せない。
世の中、平等じゃないのも事実だし、理不尽なこともたくさんあるよね。なんで自分だけがって思うことも確かにあるけど、でも人のせいや世の中のせいにしていても、幸せにはなれない、自分が変わらないと何も変わらないっていうのも事実だよね、青木さん?」
「んー…!?痛いところを突かれたような気がしますが…気のせいですか、先生?」
「いやいや、一般的な話だよ、誰も青木さんのことなんて言ってないでしょう?」
澄ました顔でコーヒーをすすりながら、一さんは続けます。
「青木さんが自分で気づく日を、温かーく見守ってるよ、無償の愛情でね。」
「あーっ、また先生の弟子いじめが始まった!こういうときの先生の言葉ってなんだか本当に裏がありそうで怖いんだよなあ…あんまり弟子をいじめないで下さいよ…」
「可愛い弟子だからこそ、育ててるんだよ。」
そう言いながら、一さんは笑いました。
「青木さんのその馬鹿がつくくらいまじめなとこ、最近の若い子には貴重だよ。ぜひ変わらないでいてほしいね。」
「突き落されたり、持ち上げられたり…先生の弟子やってるのも、楽じゃないです…」
そうぼやく青木さんに、まじめな顔をして一さんは言いました。
「青木さんがどんな家庭で育ったか、手に取るようにわかるよ。」
「先生―!!それ、いい意味で?それとも悪い意味ですか??」
慌てふためく青木さんに空になったカップを渡すと、にやっと笑いながら一さんは
「さあ、仕事だ仕事!」と言いながら自分のデスクに戻っていきました。
あとに残された青木さんは、空になった
カップを持ったまま、つぶやきました。
「先生って時々、本当に心臓に悪いわ…それだけ、洞察力があるってことなんでしょうけど…ねぇ」
思わずもれた、弟子の思い(!?)でした。