悲しくて、悲しくて…忘れるなんて、そんなの無理。もう一生、私は悲しみから抜け出すことはないだろう…一緒に死んでしまいたかった…
「今年の天気は、ちょっとおかしいよね。雨が降れば豪雨になって一気に降るし、なんだかスコールみたいだね。だんだん熱帯になってきてるのかなあ…暑くっても、やっぱり夏はカラッと晴れてくれないと、ビールがおいしく飲めないよねえ。」
7月が終わるころになっても、すっきりしない雨の日が続き、暑気払いならぬ湿気払いにと、仕事が終わって早々に「奴(やっこ)」に足を運んだ一(はじめ)さんと子弟(でし)。
まずはやっぱりビールかな、と生ビールのジョッキを2杯注文し、泡が盛り上がったジョッキを器用に運んできてくれたおかみさんに、青木さんが言いました。
「珍しいですね、さっちゃんが手伝ってないなんて。」
すると、おかみさんは笑いながら言いました。
「いえね、お友達と旅行中なんですよ。夏休みになるといつも仲がいい子が集まってあちこち行くんですよ。自分でバイト料貯めていくから、年に一回くらいならいいかってお父さんも大目に見てくれてますんでね。今年はどこだか、沖縄から離島のほうへ行ってくるって言ってましたよ。」
「それは、おかみさん忙しいね。」
「いえいえ、忙しいのはありがたいことですよ。鈴木さんも今度はご家族もご一緒によって下さいね。」いやな顔一つせず、くるくると動き回る小柄なおかみさんは近くを通るたび、何かしら話しかけてくれながら、仕事をこなしていきます。
「これ、食べてみてください。」
きれいな紫色に揚がったナスをダシの効いたつけ汁につけて冷たく冷やした「揚げ浸し」。
一さんの大好物です。
「わあ、これはうまそうだ、いただきます!」二人は早速ビールを片手に、ナスを頬張りました。
「このダシ、インスタントじゃこうはいかないなあ…やっぱり手抜きしないでカツオと昆布でダシとって私も作ってみようかなあ。」
あまりのおいしさにうなりながら、青山さんが言います。すかさず一さんが一言。
「うまくいって、お弁当の時におすそ分けが来るのいつかなあ…?」
「先生、私これでも料理まあまあの腕なんですよ!一人暮らしだからなかなか自分のためだけに凝ったもの作らないけど…。」ちょっといいわけがましくなりながら青木さんが口を尖らせた時でした。
隣の席にお皿を置いて、注文がひと段落したのでしょう、おかみさんが一さんの席によって言ったのです。
「鈴木さん、ちょっと尋ねたいことがあるんですけど明日にでも事務所にお電話していいですか?」
おかみさんが遠慮しているのが分かった一さんは、おかみさんが気を使わないようこう言いました。
「今ならビールしか飲んでないから大丈夫だよ。何の相談かなーって飲みながら考えてるより、今聞いちゃったほうがいいし。手が空いてるなら、ちょっと話していきませんか?」
「お言葉に甘えちゃって、すみませんね…」そう言っておかみさんが話し出したのはこんな話でした。
おかみさんのお姉さんの娘さんは29歳、結婚して5年たっていました。二人とも仕事をしていたこともあってまだ子どもはなく、そろそろ欲しいねと話していた矢先、ご主人が交通事故で亡くなった、というのです。
半年経った今も旦那さんの遺品を片付けることさえできずにいる、とお姉さんから聞き、一さんに尋ねてみた、ということなのです。
「仲のいい夫婦でしたから、ショックも大きかったんでしょうが、半年経っても遺品すら片付けられないなんて、ちょっと心配になって…本人の気持ちの整理がつくのを待つしかないんでしょうかねえ…」
そう言ってふっとため息をつくおかみさんの話を聞き、一さんは言いました。
「いや、たぶんお手伝いできると思います。彼女は事務所まで来れますか?」
「ええ、時々外出しているとは言ってましたから。そちらに伺う予約を取るように話してみます。」
おかみさんのお姉さんに付き添われ、玲子(れいこ)さんがやってきたのは彼女の気持ちとは裏腹に久しぶりによく晴れて入道雲が出たお盆も間近な日でした。
表情も乏しく、言葉も少ない彼女に代りに、母親が「よろしくお願いします。」といい娘をソファに座らせると一緒に寄り添うように腰掛けました。
うつろな目をして座っている玲子さんに一さんはいいました。
「よく、ここまで来ましたね。あなたが元気になるお手伝いをしたいと思っているのですが、どうですか?」
そろそろ立ち直らないと、と励まされるとでも思っていたのでしょう、一瞬「えっ?」と
言いたげな表情をした玲子さんは一さんにいいました。
「この悲しみがとれることがあるんでしょうか…」
ふっと優しい目になった一さんが言いました。
「大丈夫ですよ、私がお手伝いしますよ。」
この半年間、よほど苦しかったのでしょう、一さんの言葉を聞いたとたん、玲子さんの目に涙があふれてきました。そして彼女は話し始めました。
「こんなに早く、一人で置いて行かれるなんて思ってもみなかった。毎日毎日主人のことを思い出して悲しくてたまらないんです。自分でもどうしようもないくらい…どうにかなりそうなくらいです…」
それを聞いて一さんが言いました。
「玲子さん、ほら見てごらん、病院のベッドにご主人が横になっているよ。早くいってあげないと!あなたを呼んでいるよ!」
玲子さんの顔がサッとこわばります。玲子さんの目には空のイスの上に横たわるご主人の姿が確かに見えているのです。今までうつろだった目に悲しみと混乱の入り混じった色が浮かび、体は震えだしていました。
「早く、行ってあげて!」その言葉に背中を押されるように玲子さんがふらふらと立ちあがり、イスのそばまで行くとぺたんと座りこんでしまいました。
思わず、助けに行こうとするお母さんを眼で制して一さんはつづけました。
「玲子さん、残念だけど今ご主人は息を引き取られたよ。ご主人にサヨナラしなくてはね。」
そういったとたん、玲子さんが泣き叫んだのです。
「いやーっ!!さよならなんてできない!したくない…」もうその後は言葉になりません。
その時です。きっぱりとした声で、一さんが言ったのです。
「ほら、先立たれてどんなに悲しかったか、辛かったかみんな吐き出しなさい…。思いっきり恨み言、言ってもいいんだよ。」
一さんに肩を支えられ、泣きじゃくりながら、玲子さんが話し始めました。
「なんでっ、なんで私を置いて行っちゃったの!!あなたが死んでからどんなに悲しかったか…子どもを産んで、一緒に育てて笑い声の絶えないお家を作ろうねって言ってたじゃない…それなのに先に行ってしまうなんて、ひどいじゃない。独りぼっちになってどんなに寂しくて不安で孤独だか先に死んじゃったあなたになんか分からないわよ!!…どんなに怒っても泣いてももうあなたはいない、どんなに孤独か分からないでしょう…」
そこまで言うと玲子さんは椅子に突っ伏してしまいました。
その様子を見ながら、彼女の母親も一緒に泣いていました。
ひとしきり怒って、泣いて、いろんな思いを吐き出してしまうと、玲子さんは次第に落ち着きを取り戻してきました。
「玲子さん、すっきりしたでしょう。さあ、今のあなたならさよならが言えるはずですよ。」
そう言われて初めて、玲子さんは自分の中から悲しみがなくなっていることに気付きました。自分でも信じられない思いで一さんを振り返ると、力強くうなづく一さんがいました。
「あなた、素敵な5年間をありがとう。あなたがもういないのはすごく辛いけど、少しづつ立ち直っていけそう。あなたの荷物も少しづつ片付けるね…もうさようならいわなくちゃね、ホントにありがとう…。」
娘のワークを泣きながら見ていた母親の顔にもやっと安心の表情が浮かんでいました。
お母さんもほっとしたのでしょう。憔悴しきった娘を半年も見てきたのですから無理もありません。
一さんがうなづくとお母さんは娘に駆け寄り、娘を抱きしめ静かに涙を流しました。
明るい表情になった母娘を見送った後、一さんは大きく息を吐き、「青木さん、コーヒーちょうだい!」と言いました。
ワークの成り行きを聞きたくて、青木さんは素早くコーヒーを入れると一さんのもとに戻り、言いました。
「彼女のワーク、どんなワークだったんですか?」
大きなひと仕事を終えて、一服した一さんはちょっといたずら心を出して逆に聞きました。
「青木さんなら、どうする?」
うーん、と頭を抱えながら青木さんが言います。「えっと、まずご主人が亡くなって悲しい気持ちを受け入れてあげないといけないですよねえ…でも、ずっと消えないのは偽物の感情だから、ずっと悲しんでいたのは偽物?でもご主人が亡くなって悲しいのは当たり前だし…先生、ギブアップです…」
弟子がああでもない、こうでもない、頭を抱えているのを微笑ましく見ていた一さんは助け船を出しました。
「なくなってすぐ、悲しんでいたのは本物の感情だよ。でも、半年もの間悲しんで遺品も片づけられなかったのはちょっと違うよね?」
「あー!!そうですよね、引きずっていた悲しみは偽物なんですね!じゃ、本物の感情は…?」
「そう、彼女はひとりになった不安や孤独、つまり怖いっていう感情を悲しみにすり替えていたんだ。孤独を紛らわすためには、ご主人の使っていたものが必要だったんだよ。」
「そうだったんですね…それだけ愛してたんですね…」
夫婦の強いきずなに触れ、憧れに似た感情が湧いてきたのか、遠い眼をする青木さんに一さんが容赦のない一言を浴びせます。
「青木君、そろそろ孤独は飽きただろう?そろそろ、いい人見つけなくっちゃね?」